突如として姿を消した戦闘機、何十年も見つからないまま・・その謎の理由は?
1943年、B-24D爆撃機はある任務のため空軍基地を離れた。そして基地へ帰還する途中、同機は助けを求めて無線連絡をする。応答はあったものの、その後、同機が基地に帰還することはなかった。以降17年間もの間、同機は行方不明のままとなる。しかも同機が発見されたとき、搭乗員に何が起こったのかについて、手がかりとなるものは何一つなかった。
同機「レディー・ビー・グッド」のストーリーは何十年にもわたって、人々の興味関心をひいている。第二次世界大戦で最後の姿を見たものもおらず、行方不明となっている数少ない戦闘機である上、その搭乗員の遺体さえも見つかっていないことに心を痛める人も多い。さて、レディー・ビー・グッドとその搭乗員についてご紹介しよう。
跡形もなく消えた搭乗員
![crash site of Lady Be Good The crash site of Lady Be Good is viewed from an aerial perspective.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/crash-site-of-Lady-Be-Good-36256.jpg)
1943年4月4日、第二次世界大戦の最中に、一機の爆撃機が最初で最後の任務のためにイタリアに向けて飛んだ。ところが、所属基地への帰路で、搭乗員は航空機の故障と砂嵐による視界不良を報告した。その後、何の音沙汰もなく、同機は忽然と姿を消した。そして、その後15年以上も発見されることがなかった。
レディー・ビー・グッドと呼ばれた爆撃機については、70年以上にもわたって語られている。こんなに長い間航空機の残骸さえも見つからないなんて不気味すぎる、とか。さらに、同機が見つかった後、搭乗員らの影も形も見えないのもおかしい、とか。この驚愕のミステリーについて、もっと知りたくなることだろう。
レディー・ビー・グッド、どのように第二次世界大戦に関与していったのか
![artists' rendition of Lady Be Good An artist portrays Lady Be Good as she appeared: with the number 64 and the name](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/Missing-American-Bomber-of-WWII-Sad-story-of-the-Lady-Be-Good-2-8-screenshot-24625.jpg)
1943年、連合軍の関心はイタリアへと移っていた。この年、イタリア国民は独裁者であったベニート・ムッソリーニに対して反戦の声をあげたのだ。アメリカ陸軍はこの騒乱を利用して徐々に戦況をひっくり返し、ヨーロッパを奪い返そうと目論んでいた。
イタリアに地上部隊を派遣する前に、アメリカ陸軍はイタリアの主要拠点を爆撃する計画を立て、この任務につくパイロットらを集めて部隊を組んだ。この作戦に使われた爆撃機の1つがアメリカ陸軍航空軍(USAAF)B-24Dリベレーターであり、レディー・ビー・グッドと名付けられたのだ。
任務
![flying B-175 A B-175 Fly Fortress](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/flying-B-175-43178.jpg?b=0&c=0&width=960&height=646&top=0&left=69&zoom=1.11111111111)
当初の計画によると、レディー・ビー・グッドはリビアにあるアメリカの空軍基地から飛び立って任務を遂行することになっていた。つまり、1943年4月4日、同機は地中海を渡ってイタリア本土ナポリを爆撃した後、次の任務のためにリビアの基地へと帰還するという予定が組まれていたのだ。
もちろん、この任務がスムーズに行われていれば、こうしてレディー・ビー・グッドについて記事が書かれることもなかっただろう。レディー・ビー・グッドは予定時刻に離陸して編隊と合流する予定だったが、(これを初めての作戦任務とする)経験の浅い搭乗員らに加え、天候不良にもみまわれ、計画通りに物事は進まなかったのだ。
経験の浅い搭乗員
![crew of Lady Be Good The ill-fated crew of the Lady Be Good, from the left: 1Lt. W.J. Hatton, pilot; 2Lt. R.F. Toner, copilot; 2Lt. D.P. Hays, navigator; 2Lt. J.S. Woravka, bombardier; TSgt. H.J. Ripslinger, engineer; TSgt. R.E. LaMotte, radio operator; SSgt. G.E. Shelly, gunner; SSgt. V.L. Moore, gunner; and SSgt. S.E. Adams, gunner.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/crew-of-Lady-Be-Good-42700.jpg)
レディー・ビー・グッドは第376爆撃航空団に配備された。操縦士にウィリアム・ハットン、副操縦士にロバート・トナー、航法士にD・P・ヘイズ、銃手にはガイ・シェリーをはじめ、ヴァーノン・ムーア、サミュエル・アダムス、通信士にロバート・ラモット、航空機関士にハロルド・リップスリンガーが配属された。搭乗員らは前月の3月にリビアに到着したばかりで、同地での経験はまったくなかった。
この9人が同部隊に配属されるのは初めてのことだったが、だからといって飛行経験がないわけではなかった。皆それぞれ相当の軍事訓練を積んで、スキルを身につけていた。ただ、操縦士のハットン大尉をはじめ、多くのメンバーにとってはこれが初めての作戦任務だったのだ。
最初から遅れをとっていた
![rows of military planes Military planes are lined up in rows, prepared for takeoff.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/The-Story-of-the-Lady-Be-Good-by-Dick-Campbell-14-17-screenshot-52229.jpg)
3月25日、レディー・ビー・グッドは(第376爆撃航空団下の)第514爆撃隊所属となった。当初の予定では、同機はナポリ港湾への爆撃任務にあてられた25機のうちの1機で、他の爆撃機と編隊を組んで共に出撃することになっていた。この任務は2波に分かれて最初に12機が出撃し、後から後続編隊の13機が出撃する予定だった。レディー・ビー・グッドは後続編隊のしんがりを務める予定だったのだ。
午後2時15分、レディー・ビー・グッドはスルーク飛行場から出撃した。この時点ですでに編隊の他の航空機に遅れを取っていたが、運の尽きはB-24からなる部隊を砂嵐が襲ったことから始まっていた。
最初から順調とは言えないスタート
![examining the guns A search party member examines the guns of the Lady Be Good B-24D bomber.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/exploring-the-plane-35561.jpg)
部隊はナポリへの飛行中、強烈な砂嵐のため視界不良に陥っていた。後続編隊のうち、9機のB-24はスルーク飛行場へと引き返したほどだった。砂がプロペラ内に入り込み、これ以上の任務遂行は危険と判断したためだ。レディー・ビー・グッドのプロペラは速度を落とすことなく順調に動作していたことから、ハットン大尉は引き続き任務を遂行する判断を下した。
しかし、ナポリまでの飛行は決して容易ではなかった。強い風に押され、レディー・ビー・グッドは残りの部隊から離されてしまったのだ。搭乗員らは自動方向探知機を頼りにナポリへ到達している。それだけでも奇跡的なことだった。
飛行を継続した数少ない爆撃機のうちの1機
![A B-24 near mountains. An old B-24 plane flies in front of the mountains.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/Missing-American-Bomber-of-WWII-Sad-story-of-the-Lady-Be-Good-0-34-screenshot-97868.jpg)
レディー・ビー・グッドは午後7時50分頃ナポリに到達したが、すでに爆撃を開始していた部隊の他の航空機と離れすぎており、合流することはできなかった。さらに、ナポリ上空も視界不良だったため、主目標だけでなく、次候補の目標にも爆弾を投下することができなかった。
一方、他のB-24機も容易に任務を遂行できたわけではなかった。すべての航空機が視界不良を報告していたのだ。しかしながら、編隊のうち、レディー・ビー・グッドではない他の2機が帰路に次候補の目標を爆撃し、首尾は上々だったと言える。目標に投下しなかった残りの爆弾は地中海に投棄されている。
爆撃前に、基地に引き返す
![B-24 flying A B-24D plane is pictured flying.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/The-Story-of-the-Lady-Be-Good-by-Dick-Campbell-13-54-screenshot-31747.jpg)
同部隊の他のB-24機がナポリでの任務を遂行した一方で、レディー・ビー・グッドは任務をまっとうすることが叶わなかった。視界不良のため、爆撃を諦めてスルーク飛行場に引き返すことにしたのだ。他の爆撃機がナポリの奇襲に成功したことを知ると、レディー・ビー・グッドは航路を変え、単独でスルーク飛行場へと帰還することにしたのだ。
単独飛行と言えば困難なように思われるかもしれないが、操縦士らはこれに対応できるスキルを身につけていた。他のB-24機同様、重量軽減と燃料節約のため、レディー・ビー・グッドも爆弾を地中海上に投棄した。何のトラブルもなく飛行を続けてから5時間後、ハットン大尉からの無線連絡が入る。
助けを求める
![Robert F. Toner A black-and-white photo features Robert F. Turner, co-pilot of Lady Be Gone, sitting in the plane.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/B-24-Liberator-Lady-Be-Good-4-0-screenshot-24876.jpg?b=10&c=0&width=800&height=600&top=0&left=0&zoom=1)
午前12時12分、ハットン操縦士から基地へ「ADFが機能していない、QDMが欲しい」と無線連絡が入っている。つまり、同機の自動方向探知機が故障しているため、基地へ帰還するために座標を求めていたのだ。
スルーク飛行場の兵士はすぐさま座標を送信していたが、どういうわけか、ハットン大尉はこの応答を受け取っていない。もしかしたらドイツ軍が通信を邪魔していたのかもしれないと言われているが、真相は謎のままだ。
基地まで近かったのに…
![Lady Be Good in fog Re-enactment shows the B-24D bomber Lady Be Good flying through cloudy skies.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/Lady-Be-Good-1-55-screenshot-64657.jpg)
スルーク飛行場では兵士らがB-24機のブーンというエンジン音を聞いていた。レディー・ビー・グッド機だと思った兵士らは、照明弾を打ち上げている。報告書によると、少なくとも1人の兵士がエンジン音が頭上を通り過ぎるのを聞いたとしている。ただ、レディー・ビー・グッドが飛行場に帰還することはなかった。
レディー・ビー・グッドは基地を通り過ぎていた。厚い雲に覆われていたため、基地から打ち上げられた照明弾が見えなかったに違いなかった。スルーク飛行場を通り過ぎた後、レディー・ビー・グッドはさらに2時間以上も方角も分からずに飛び続けていたのだ。
墜落、その後…謎は深まる
![close up Lady Be Good A rescue worker examines the remains of the crashed bomber Lady Be Gone.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/close-up-Lady-Be-Good-86617.jpg)
スルーク飛行場の兵士らは、その後レディー・ビー・グッドの音を聞くことはなかったという。天候が回復した後、同機を探すための捜索救助隊が派遣されたが、成果を上げることはできなかった。手がかりもなく、視認することもできなかったため、スルーク飛行場の兵士らは同機が地中海に墜落したと推測した。
第二次世界大戦中に姿を消した航空機は、何もレディー・ビー・グッド機だけではなかったが、その後発見された数少ない航空機の1つには違いない。第二次世界大戦終了から13年後、レディー・ビー・グッドは偶然にも発見されたのだ。だが、発見したことで謎はさらに深まるばかりだった。
偶然の発見
![flying over the crash A plane flies over the crashed Lady Be Gone B-24D.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/flying-over-the-crash-sideways-76911.jpg)
1958年、ダーシー石油会社(後に社名をイギリス石油会社と変更)の石油資源探査隊らがリビアの砂漠の探索を始める。11月9日、同社の石油資源探査隊がクフラ地区北東を航過したときのことだった。
搭乗員が砂漠に墜落した航空機に気づく。すぐにこの発見をウィーラス空軍基地に通報したが、同基地はそのあたりで墜落したと考えられる機体が確認されなかったため、何の対応もしなかった。それでも、石油資源探査隊は地図上に墜落機の位置を記録しておいた。
レディー・ビー・グッドの調査
![first photo of Lady Be Good after crash This colored photo is the first of Lady Be Good after she was found on February 27th, 1959.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/The-Story-of-the-Lady-Be-Good-by-Dick-Campbell-3-6-screenshot-91224.jpg)
レディー・ビー・グッドが発見されたにもかかわらず、その調査が始まったのは1年後のことだった。発見された同年、シルバー・シティ・エアウェイズ・ダコタの乗組員と、もう1人、匿名の操縦士も墜落機を目撃している。1959年2月27日、イギリスの石油資源調査員や地質学者がレディー・ビー・グッドを目撃した後、ついにウィーラス空軍基地が対応する。
1959年3月26日、回収チームがレディー・ビー・グッドの残骸に到達した。レディー・ビー・グッドはスルーク飛行場の南東710キロメートルの位置に墜落していた。同機から何が見つかるか(または見つからないか)、予想もしていなかった。
まるで忽然と姿を消したかのよう
![in the Libyan desert A colored photo displays the Lady Be Gone B-24D in the Libyan desert.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/in-the-Libyan-desert-72983.jpg?b=0&c=0&width=944&height=547&top=32&left=0&zoom=1.11111111111)
レディー・ビー・グッドは機体が真っ二つに割れていることを除いて、状態はさほど悪くなかった。同機が姿を消した夜、搭乗員らと通信できなくなっていたにもかかわらず、無線は正常に動作した。50口径の銃も機能したし、完全に装弾されたままだった。しかし、搭乗員らの姿は忽然と消えたかのように、何一つ手がかりを見つけることはできなかった。
まず、同機内に遺体は1つもなかった。さらに、どういうわけか、搭乗員らは食料品や水を機内に残したままだったのだ。紅茶の入った魔法瓶もそのままだった。搭乗員らが食料品や水も持たずに同機を離れたのであれば、一体どこに行ってしまったのだろうか。
謎は残ったまま
![the cockpit This close-up photo shows the cockpit of the Lady Be Gone.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/B-24-Lady-Be-Good-Lost-bomber-of-World-War-II-2-56-screenshot-49866.jpg)
墜落現場の調査が進んでも、多くの疑問が残されたままだった。搭乗員らがレディー・ビー・グッドの機内にいないのであれば、一体どこに行ったのだろうか。どうして食料品や水を置いて行ったのだろうか。無線機が動作しているのに、どうしてスルーク飛行場に連絡を取らなかったのだろうか。
同機の調査は1959年の5月~8月末まで続けられた。この間、アメリカ陸軍は地上だけでなく、空からも調査を行った。長期間にわたって調査を続けていたために、砂や風で調査機器さえも劣化していった。しかしこの調査の結果、ブーツやパラシュートなどが見つかった他、レディー・ビー・グッドの搭乗員の存在を示す手がかりはまったくなかった。
再調査に着手
![B-24D crash A far-away photo shows the crashed B-24D bomber Lady Be Good.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/B-24D-crash-26817.jpg)
最初の調査で、ダーシー石油会社の調査員ゴードン・バウアーマンはウィーラス空軍基地から派遣された探索救助隊に同行していた。同機を調査した後、バウアーマンはウォルター・B・コルバス中佐に宛て、詳細をしたためている。しかし、誰も何が起こったのかまったく見当もつかなかった。
コルバス中佐の助けを借りて、ウィーラス空軍基地はドイツのフランクフルトから派遣された陸軍需品科と共に再調査に着手した。だが結局、1960年の始まりまでに陸軍需品科のスタッフは手を引いている。一方で、残りの捜索隊は残留して答えを探し続けた。
搭乗員のうち、5人の遺体を発見
![covering a skeleton Men who found one of Lady Be Gone's crew members cover the skeleton with an American flag.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/covering-a-skeleton.jpg-42567.JPG)
1960年2月、レディー・ビー・グッドが発見された2年後、救助隊は搭乗員を発見する。2月11日、5人はサハラ砂丘下に埋もれていた。5人はハットン大尉、ヘイズ少尉、トナー少尉、ラモット三等軍曹、アダムス軍曹と特定された。この発見後、陸軍需品科は作業員らを手伝うためにリビアに戻っている。
遺体と共にいくつかの遺品が発見された。懐中電灯、パラシュートの切れ端、フライトジャケット、水筒が1つ。しかし、最も注目すべきは、レディー・ビー・グッドの副操縦士ロバート・トナー少尉が持っていた日記だった。
クライマックス作戦
![searching for the plane Army search chiefs point at a parachute strip marker left by Lady Be Gone.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/The-Story-of-the-Lady-Be-Good-by-Dick-Campbell-6-10-screenshot-52632.jpg)
5人の遺体が発見された後、アメリカ陸軍が本格的な調査に乗り出した。アメリカ陸軍はこれを「クライマックス作戦」とし、残る4人の搭乗員を発見することを目標に掲げていた。そして、この任務は2月から5月まで続いた。
まもなく、5人の遺体が発見された場所からおよそ34キロメートルほど北東に進んだところでシェリー軍曹が発見される。また、シェリー軍曹のいた場所からさらに40キロほど北に進んだところでリップスリンガー三等曹長が発見された。どうして2人は互いに離れたところにいたのだろうか。どうして他の5人とも離れたところにいたのだろうか。まだ謎は残ったままだったが、こうしてクライマックス作戦は終了した。
最終的な発見、情報をつなぎ合わせる
![Toner's diary Two men examine Lieutenant Toner's diary shortly after discovery.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/Toners-diary.jpg-38858.JPG)
クライマックス作戦終了後にアメリカ陸軍は撤退したものの、ダーシー石油会社は捜索を続けた。8月、ついに爆撃手だったウォラフカ少尉が発見された。しかしこの時点でも、まだ残る1人、銃手で通信士でもあったムーア軍曹が行方不明のままだった。
ほとんどの搭乗員の遺体が発見され、救助隊はデータの回収を開始した。トナー少尉の日記から得られた情報を詳しく調べた結果、レディー・ビー・グッドの搭乗員らに何が起こったのか、こう仮説を立てることができた。
一体、何が起こったのか
![Toners diary A view of two pages of Toner's diary.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/Toners-diary-86005.jpg)
実際には、当時のレディー・ビー・グッドの搭乗員らに何があったのかを知ることはできないが、専門家らは遺品から情報をまとめて答えを出した。爆撃手のウォラフカの手記には、搭乗員らの会話が記されていた。「どうなってしまうのか…家に帰れるのだろうか。」
レディー・ビー・グッドの燃料がなくなり、搭乗員らは同機を捨てるしかなかった。どうやら皆、地中海上にパラシュートで降下したと思っていたようだった。だが実際には、サハラ砂漠のど真ん中のカランシオ砂海に着地していた。
補給品を捨てていった理由
![another angle of Lady Be Good A view of the fallen plane Lady Be Good from the front.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/another-angle-of-Lady-Be-Good.jpg-20521.JPG?b=0&c=0&width=967&height=641&top=36&left=54&zoom=1.11111111111)
一方、レディー・ビー・グッドはさらに南へ26キロメートル飛行した後、墜落していた。それゆえ航空機の中に補給品が残っていたのだ。近くに町があると思い、飛行機のそばにとどまらず、助けを求めに行くことにしたのだ。
搭乗員らは、水や食料、無線機を搭載し、暑い日差しから日陰を提供してくれるレディー・ビー・グッド機が、自分達のいる場所から歩ける距離にあるなど思いもよらなかったようだった。レディー・ビー・グッドに出くわしていたなら、救出まで生きのびることもできたかもしれなかったが、不運にも、レディー・ビー・グッドが墜落した場所とは反対方向に移動していたのだ。
1人を除いて、皆が集まることに成功
![tracking the crew Members of a search party track the crew of Lady Be Gone.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/B-24-Liberator-Lady-Be-Good-2-51-screenshot-16929.jpg?b=0&c=0&width=800&height=577&top=18&left=38&zoom=1.11111111111)
パラシュートで安全に着地した後、手持ちの信号拳銃やリボルバー拳銃を空中に発砲し、9人中8人が互いを発見することに成功した。残りのウォラフカ少尉は、パラシュートが十分に開かず着地の衝撃で死亡していた。だが、集まった搭乗員らはこのことを知る由もなかった。
トナーの日記にこの後どうなったのかが記されていた。トナーによると、搭乗員らは自分たちが地中海の沿岸近くにいるはずだと推測したらしかった。だが実際には、640キロメートルも内陸にいたのだ。専門家らは、暗闇の中で何もない砂漠を飛行機から見たら、海に見えたのかもしれないと推測している。
わずか1本の水で砂漠を進む
![crewmans shoes A pair of shoes left behind from the crew of Lady Be Good.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/crewmans-shoes-21916.jpg?b=0&c=0&width=1200&height=949&top=53&left=67&zoom=1.11111111111)
トナーの日記によると、集まった搭乗員らは北西へと進むことに決めたようだった。わずかな補給品とたった1本の水を分け合いながら、サハラ砂漠を移動したのだ。1日に飲める水はほんのわずかな量だった。
一行は、ライフジャケットやパラシュートの切れ端、靴などを道中残しながら歩き続けた。専門家らは、こうすることで跡をたどれると思ったのだろうと推測している。トナーは、隊員らが日中休み、夜に歩き続けたと記している。
苦しい移動
![finding a harness A member of the search party finds a shoulder harness left from a member of Lady Be Good's crew.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/finding-a-harness.jpg-93931.JPG)
4月7日水曜日までに、トナーは一行が苦しんでいると記している。「眠れない」と書き記している。「灼熱の砂漠を歩き続けることで、皆が痛みを覚えている。」わずかな水と食料で3日間移動し続けたことで、隊員らは苦しんでいた。だが、これは悪化の一途をたどる。
翌日、砂嵐が視界を遮る。トナーの日記によると、「ラモットの目がやられた。」とある。つまり、砂のせいで目が見えなくなったのだ。「他の皆の目も見えづらくなっている」と書かれている。砂嵐にもめげず、一行は北西へと移動を続けた。
一行、助けを求めるために分かれる
![five crew members Five crew members of Lady Be Good pose playfully for a picture. From left to right: Moore, Hays, Woravka, Shelley, and Ripslinger.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/five-crew-members.jpg-81031.JPG)
4日後、一行は墜落場所から130キロメートル離れたところまで移動していた。5人はこれ以上歩き続けることはできないと感じ、シェリー、リップスリンガー、ムーアの3人が助けを求めるために歩き続けた。
トナーはあとに残った。そして、日記に最後の様子を記録している。4日4晩、皆が助けを祈り続けたと記されていた。「夜はすごく寒い。」「眠れない。」助けを求めるために移動を続けた3人に何が起こったのかはまったく分からない。
最期の日々
![Toner's last entries Lieutenant Toner's diary lists his final entries.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/B-24-Liberator-Lady-Be-Good-3-49-screenshot-80012.jpg)
4月12日月曜日、トナーの日記には太い字で「まだ助けはない、夜はとても寒い。」と記されている。そして、これが5人が砂漠で息を引き取る前の最後の記述となった。悲運にも、自分たちがレディー・ビー・グッドの墜落場所と反対方向に移動していることに最後まで気がつかなかったのだ。
シェリーとリップスリンガーは、それぞれ5名がいた位置より32キロメートルと43キロメートル離れたところで見つかった。ムーアの遺体が発見されることはなかった。結局、一行はサハラ砂漠で8日間生存していた。
戦没者を追悼する
![saluting the fallen Soldiers salute the dead crew of Lady Be Good.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/saluting-the-fallen-18911.jpg?b=10&c=0&width=1021&height=678&top=0&left=0&zoom=1)
8人の遺体が発見されると、アメリカ陸軍の兵士は星条旗で遺体を覆った。捜索隊はサハラ砂漠の真ん中で丁重に葬式を行った。その後、遺体をアメリカの家族のもとに送って埋葬した。
今日、ウィーラス空軍基地内のチャペルにあるステンドグラスは、レディー・ビー・グッドとその搭乗員らを追悼している。レディー・ビー・グッドのプロペラは、ミシガン州のレイク・リンデンに展示されている。
飛行機はどうなったのだろう?
![Lady Be Good in Libya The remains of Lady Be Good are stored in a city in Libya.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/Missing-American-Bomber-of-WWII-Sad-story-of-the-Lady-Be-Good-5-57-screenshot-23452.jpg)
砂漠での17年間の間、レディー・ビー・グッドは記念品ハンターの餌食となった。その結果、B-24Dの部品はあちこちで見つかっている。他の部品はカリフォルニア州のマーチ飛行場航空博物館で展示されている。
同機の残存部はリビアのガマール・アブドゥル=ナーセル空軍基地に保管されている。レディー・ビー・グッドだと特定された後、部品のいくつかはアメリカに送られている。部品は評価された後、一部、他の航空機に使われている。
17年間の謎、ついに解明
![recreation of the crash A recreation of the Lady Be Good crash is seen on the desert sand.](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/Lady-Be-Good-8-58-screenshot-26830.jpg)
遺体の発見はメディアで大々的に取り上げられた。中でも、トナーの日記が公開されると、それを読んだ人々の胸には悲しみが広がった。アメリカ中の国民が、戦没者とその遺族を思い、嘆き悲しんだ。
証拠が残されているにもかかわらず、これを信じない人もいる。中には、アラブ系遊牧民のベドウィン族の奴隷として売り飛ばされたと主張する人もいる。ただ、この説を裏付けるものは何もないため、こうした懐疑派はまれだ。多くの人は、証拠となる写真やトナーの日記から裏づけられるレディー・ビー・グッドの最期は仮説通りだろうと信じている。
世界に与えた影響
![book about lady be good The book](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2019/11/book-about-lady-be-good.jpg-41504.JPG)
長年にわたり、忽然と姿を消したレディー・ビー・グッドや、搭乗員らの痛ましい苦難は人々の想像をかきたてた。この話から多くのフィクション作品が生まれた。
1964年、エルストン・トレヴァーが発表した「飛べ!フェニックス」にはレディー・ビー・グッドと類似点が多く見られている。この小説は1965年と2004年に映画化されている。「トワイライト・ゾーン」内の一話「キングナイン号帰還せず」で、砂漠の墓には「1943年4月5日」と記されているが、これはレディー・ビー・グッドが墜落した日だ。
米軍艦のグレイバック
![1564417062139-51750 1564417062139-51750](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/1564417062139-51750-40723.jpg?width=800&height=533)
あまりその名前は知られていないが、1944年、行方不明になったのはUSSグレイバックまたはSS-208という名称のアメリカ海軍の潜水艦だ。
近年、この潜水艦は、第二次世界大戦中に喪失した52隻の潜水艦を調査する「ロスト・52・プロジェクト」で捜索されていた。グレイバックの喪失が報告されたのは、1944年3月下旬のことだった。
戦果の報告
![GettyImages-615315692-65974 GettyImages-615315692-65974](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-615315692-65974-55325.jpg?width=800&height=533)
1944年1月28日、グレイバックは哨戒任務のため真珠湾から送り出された。これがグレイバックにとって10回目となる哨戒任務だったが、これが最後になるとは誰も予想していなかった。
レーダーにかからなくなり行方不明となる数週間前、グレイバックは日本の貨物船東神丸と大敬丸を撃沈させ、基地に無線で戦果を報告している。基地側ではこの報告を2月24日に受信している。
2回目の無線連絡
![GettyImages-470034843-91841 GettyImages-470034843-91841](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-470034843-91841-84275.jpg?width=800&height=533)
翌日の1944年2月25日、グレイバックの乗組員は、主に兵隊を運ぶために使われていた日本の潜水艦の浅間丸を撃沈したと、さらなる戦果を報告している。
続いて南邦丸も沈没させている。しかし、残りの魚雷が2本しかなかったため、補給をするため北太平洋のミッドウェー環礁に戻るように命じられていたグレイバックからは、その後の報告はなかった。
グレイバックの喪失が報告される
![GettyImages-869781772-20197 GettyImages-869781772-20197](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-869781772-20197-56283.jpg?width=800&height=533)
2月25日にあった報告が、グレイバックから送信された最後の報告となった。最後の報告が送信された位置情報から、補給ステーションに戻ってくるのは3月7日頃だろうと予測されていた。
しかしグレイバックは、到着予定日から3週間経ってもミッドウェー環礁に姿を現さなかったのだ。1944年3月30日、ついにグレイバックは喪失したと報告された。
グレイバックの建造は至難の業
![GettyImages-1058619060-24377 GettyImages-1058619060-24377](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-1058619060-24377-58435.jpg?width=800&height=533)
1940年4月3日、コネチカット州グロトンにある造船会社エレクトリック・ボート社はUSSグレイバックの建造に着手した。同社は熟練の作業員とエンジニアを擁していることで知られており、潜水艦の建造も順調にいくのは明らかだった。
実際、同社は1899年から潜水艦の建造をはじめ、アメリカ海軍で最初に就役した潜水艦のUSSホランドの建造に成功している。さらに第一次世界大戦中には、同社は85隻の潜水艦を建造し、アメリカ軍とイギリス軍に大いに貢献している。
第二次世界大戦では、もっと多くの潜水艦を建造した
![GettyImages-615309252-65184 GettyImages-615309252-65184](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-615309252-65184-33521.jpg?width=800&height=533)
第二次世界大戦中、エレクトリック・ボート社(と、その子会社)はさらに74隻の潜水艦の発注を受ける。この時建造された潜水艦のうちの1隻がグレイバックだった。グレイバックはタンバー級潜水艦として知られ、同社が建造した同じタンバー級潜水艦の12隻のうちの1隻だった。うち7隻は第一次世界大戦中に撃沈されている。
残りのタンバー級潜水艦は作戦から引き揚げられたが、グレイバックは引き揚げる前に喪失してしまったのだ。
グレイバック、素晴らしい能力を誇る船
![GettyImages-90003196-14276 GettyImages-90003196-14276](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-90003196-14276-26193.jpg?width=800&height=533)
グレイバックは、全長およそ91.5メートル、最大2,410トンもの水圧下に耐えられる潜水艦として設計された。
その全幅はおよそ8メートル、最大速力は水上で20ノット(時速37キロメートル)、水中で9ノット(時速17キロメートル)だった。その上、グレイバックは48時間も潜水したままでいられたのだった。
ディーゼルエンジンも搭載
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グレイバックには電動機4基搭載されており、これで潜水艦のプロペラを回し、さらにディーゼルエンジンも搭載していることから、およそ水深75メートルまでの潜水が可能となっていた。
残念ながら、同潜水艦は喪失時に収容能力の限界を超えていた。設計上の定員は54名の下士官兵と6名の将校だったが、1944年2月、最後となった哨戒時に乗組員は80名であったという。
戦闘を目的として設計された
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移動速度の速さと潜水能力に加え、グレイバックは戦闘用に設計されていた。兵装として、およそ53センチメートルの魚雷発射管を10基備え、うち6基は艦首に、残り4基は艦尾に設置されていた。
さらに、50口径の銃、エリコン20ミリメートル砲、ボフォース40ミリメートルがデッキに並んでいた。水中でも海上に浮上したときにも、攻守の機能を持てるように設計されていた。
たちまち戦闘態勢に
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エレクトリック・ボート社がグレイバックを建造完了してからわずか10ヶ月後の1941年1月31日、海軍少将ウィルソン・ブラウンの妻が直々にグレイバックの進水を発表した。
潜水艦は同年6月30日に海軍の指揮下、就役する。この5ヶ月後、1941年12月7日に真珠湾が攻撃され、アメリカが日本に宣戦布告する。
哨戒の任務を命じられた
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アメリカ海軍に引き渡された後、グレイバックはロングアイランド・サウンドでウィラード・A・サーンダース少佐の指揮下で就役した。初めての航海は、この潜水艦の能力を確かめるため、また乗組員らが同潜水艦とその扱いに慣れるために行われた。
乗組員らがグレイバックの扱いに慣れてくると、1941年9月、カリブ海およびチェサピーク湾の哨戒を行った。
戦闘に備える
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メイン州にあるポーツマス海軍造船所で一連の点検やメンテナンスを受けた後、1942年、グレイバックは真珠湾に向けて出航した。グレイバックが真珠湾に到着する頃までに、アメリカは第二次世界大戦の真っ只中にあり、すぐにグレイバックの乗組員らも戦闘に加わることは明らかだった。
1942年2月15日、グレイバックは前年日本軍が侵攻を進めているグアム島沖へと向かった。
敵陣に向かう
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グアム沖を哨戒した後、グレイバックはさらに日本軍の領域となっていたサイパン島へと進行した。この哨戒任務は3週間にわたったが、ある日本軍の潜水艦とまるで「かくれんぼ」でもしているかのようになる。
この間、日本軍の潜水艦はグレイバックに対し、2本の魚雷を発射したが、両方とも逸れてしまったようだった。その後、グレイバックは反撃に出る。
戦闘の始まり
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敵の領域で哨戒任務を続ける間に、グレイバックは複数の敵の潜水艦に遭遇しながらも、何とかうまくその場を切り抜けている。さらには、3,291トンもの大きな運送船を撃沈している。
しかしながら、2回目の哨戒任務ではほとんど戦闘をすることもなく、戦果をあげることもなかった。結果、フリーマントルに帰投している。フリーマントルは西オーストラリアにある基地だが、グレイバックは哨戒任務期間中この基地に帰投していた。
グレイバック、トラブルもあった
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この後にも2回の哨戒任務を受け、グレイバックは南シナ海を航海した。敵の艦船や薄暗い夜に航海を続けることが危険なことも幾度となくあった。
にもかかわらず、グレイバックは敵の艦船や商船を撃沈させることに成功している。1942年12月7日、5回目の哨戒任務に備えて、再度オーストラリアの港へと帰投する。
乗組員ら、忘れられないクリスマス
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1942年のクリスマスの日は、グレイバックの乗組員らにとって最も危険な一日となりえる日だった。浮上して敵の艀(はしけ)4隻を発見すると、デッキの砲撃を使用してこれらを撃沈することに成功している。
このわずか4日後、グレイバックは再び敵の潜水艦に発見されて雷撃を受けるも、これを回避している。1943年には、日本軍の伊18と追いつ追われつのようになるものの、最終的には同潜水艦を雷撃し、沈没させている。
救出作戦に乗り出す
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5回目の哨戒任務において、グレイバックは救出作戦に乗り出している。そして、この功績こそ、グレイバックの最も勇敢かつ大胆な任務だったと言われている。日本軍の領域でマーティン社のB-26マローダーが墜落し、6名の搭乗員らが身動きがとれなくなっていたのだ。
辺りが暗くなるのを待って、グレイバックは2人の乗組員を上陸させ、捜索救助任務に送り出した。そして負傷したアメリカ兵を発見し、小さなボートに乗せてなんとかグレイバックに収容すると、夜明けまでに再び潜水して日本軍の航空機に発見されることなく救出することに成功している。
グレイバック、爆雷によって損傷
![GettyImages-902938766-32155 GettyImages-902938766-32155](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-902938766-32155-58906.jpg?width=800&height=533)
負傷した兵士らを発見、救出に成功した翌日の晩、上陸していた2名の乗組員は、さらに身動きが取れなくなっていた兵士らを慎重に潜水艦の位置まで連れて行くことに成功している。
この救出作戦の成功により、1942年9月に指揮をとっていたエドワード・C・ステファン艦長には海軍十字章ならびに陸軍銀星章(シルバースター)が授けられている。グレイバックはその後も任務を続け、敵軍の艦船を撃沈させていたが、後に爆雷によって損傷を被っている。
オーストラリアに帰投
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敵艦から放たれた爆雷によって、グレイバックは船体の一部を酷く損傷した。この結果、グレイバックはオーストラリアのブリスベンに帰投せざるを得なくなっている。
修復と改善が行われ、1943年2月、グレイバックには次なる哨戒任務が課される。しかし、新たに装備されたレーダーやその他の技術により、攻撃を受けることはなかった。1943年4月、グレイバックは7回目の哨戒任務で再び戦果をあげることとなる。
戦闘を再開
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7回目の哨戒任務は、6回目よりも波乱に満ちていた。グレイバックは日本の特設運送船淀川丸を撃沈し、その数日後には1発の魚雷でもう1隻、さらに翌日にはなんともう3隻も撃沈した。
この大々的な勝利の後、グレイバックは真珠湾に帰投し、その後オーバーホールのためカリフォルニア州サンフランシスコに回航した。
ムーア司令官の指揮下で「ウルフパック」を構成する
![GettyImages-3200345-18783 GettyImages-3200345-18783](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-3200345-18783-74284.jpg?width=800&height=533)
1943年9月12日、真珠湾に到着したグレイバックは、太平洋での次の任務に備えていた。8回目の任務を前に、同潜水艦の艦長はジョン・アンダーソン・ムーア少佐に代わった。
真珠湾に到着してからわずか2週間後、グレイバックは再びミッドウェー環礁へと送られる。ただ、今回はUSSシャードと「ウルフパック(群狼作戦とも呼ばれる)」を構成した。さらにミッドウェー環礁では、USSセロもこのウルフパックに合流している。ウルフパックとは、ドイツのUボート(潜水艦)で行われる複数の潜水艦が協同して敵輸送船団を攻撃する戦術だが、これが功を奏したのだ。
ウルフパック、戦功をあげる
![GettyImages-107414962-19902 GettyImages-107414962-19902](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-107414962-19902-43861.jpg?width=800&height=533)
アメリカ海軍によって実施されたウルフパックは、作戦通り、功を奏した。3隻の潜水艦は、合計38,000トン以上の日本の艦船を撃沈することに成功している。
1943年11月10日までに、3隻の潜水艦はすべての砲弾などを使い果たしたため、ミッドウェー環礁へと帰投した。そしてこの任務の終了までに、ムーア司令官はグレイバックを指揮して戦果をあげたことで、海軍十字章を授かっている。
9回目の哨戒任務では、短期間に次々と戦果をあげた
![GettyImages-2660133-52502 GettyImages-2660133-52502](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-2660133-52502-36133.jpg?width=800&height=533)
1943年12月2日、グレイバックは再び哨戒任務のため出港した。今回の目的地は東シナ海だった。9回目となる哨戒任務では、わずか5日間の間にすべての魚雷を発射し、4隻の日本軍の艦船を撃沈した。
弾切れとなったグレイバックは真珠湾への帰投を余儀なくされたものの、この戦果によって、ジョン・アンダーソン・ムーア司令官はさらに海軍十字章を授与された。
最後の任務へと出航
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9回の哨戒任務を成功裏に終え、グレイバックは真珠湾に帰投していた。その後、10回目の任務を課されるが、それが実質的に最後の任務となったのだった。同潜水艦は1944年1月28日に最後となった任務のために出航し、前述の通り、同年2月25日に基地へ無線連絡したのが最後となっている。
以降、この伝説的な潜水艦とは連絡がとれず、3月30日、太平洋潜水艦隊司令部はついに同潜水艦が喪失したと発表した。
最後の任務
![GettyImages-107427341-98398 GettyImages-107427341-98398](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-107427341-98398-24822.jpg?width=800&height=533)
真珠湾を出航したグレイバックは、再び危険な地域に戻ると、合計21,594トンもの日本軍の艦船を撃沈している。この時点で、ムーア司令官がグレイバックを指揮するのは3回目となっていた。
そして、同潜水艦を再び目にすることはできなくなったものの、ムーア司令官には3度目の海軍十字章が追贈されている。グレイバックはこの第二次世界大戦での戦功により、8個の従軍星章を受章している。
調査を実施
![GettyImages-3243824-59667 GettyImages-3243824-59667](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-3243824-59667-66426.jpg?width=800&height=533)
グレイバックが姿を消し、同潜水艦に一体何が起こったのか、真実が明らかになるまで数十年が経過した。海軍は同潜水艦のみならず、80名の兵士の命を失っている。
当初、海軍は、グレイバックは沖縄の南東160キロメートルほどの辺りに沈没したのではないかと推測していた。しかし、何度目かの調査の後、推測の根拠となっていた情報が誤ったデータに基づいていたことが明らかとなった。
数字が1桁間違っていた
![GettyImages-515607854-94806 GettyImages-515607854-94806](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-515607854-94806-17620.jpg?width=800&height=533)
海軍がグレイバックの沈没箇所を突き止めるために使用していた情報は、日本軍の記録から得られたものだった。しかしながら、おそらく地図を描きうつした際に誤ったとみられる、1桁ほど数字が間違っている箇所が発見されたのだ。
つまり、グレイバックの捜索をまったく見当違いの場所で行っていたことになる。数年間、誤った場所を捜索していたことが明かになった後、調査を全体的に見直して新たに開始することとなった。
2018年の新たな調査
![GettyImages-549037835-56116 GettyImages-549037835-56116](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-549037835-56116-65299.jpg?width=800&height=533)
2018年、海底探索の専門家ティム・テイラー氏らが再び調査を開始し、海軍がそもそもどこで沈没船の位置確認を誤ってしまったのかについて再検討した。
そして幸運にも、何が起こったのか真実を解明するためのカギが見つかったのだ。テイラーは、第二次世界大戦中に喪失した52隻の潜水艦を発見することを目的とする民間調査「ロスト52プロジェクト」の指揮をとった。
日米の合同調査
![GettyImages-549037525-41809 GettyImages-549037525-41809](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-549037525-41809-22956.jpg?width=800&height=533)
テイラーは結局のところ、長崎県佐世保市にあった旧日本海軍の記録を読み解くために、日本の歴史研究者岩崎裕(ゆたか)氏の協力を得ていた。
第二次世界大戦中、大日本帝国海軍はこの海軍基地を使用して沖縄の那覇にあった旧海軍航空基地と無線連絡をしていたのだった。
過りがあった箇所を見つける
![GettyImages-51795189-13989 GettyImages-51795189-13989](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-51795189-13989-97868.jpg?width=800&height=533)
岩崎氏はすぐに同プロジェクトにとりかかると、まもなく1944年2月27日那覇から送信され佐世保で回収された報告書の写しに過ちがあるのを発見する。
偶然にも、回収されたデータはグレイバックが基地に帰投するわずか数日前のものだった。さらに、空母から回収された記録の中に、中島B5N攻撃機が行った爆撃について詳しい報告が見つかった。
攻撃機による爆撃
![GettyImages-590498618-95872 GettyImages-590498618-95872](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-590498618-95872-24466.jpg?width=800&height=533)
2月27日、中島B5N攻撃機は浮上した潜水艦に220キログラム以上ある爆弾を投下したと報告していた。報告書には、爆弾が潜水艦の展望塔側に命中し、潜水艦を撃沈したと詳細に記録されていた。
2019年、岩崎氏はニューヨークタイムズ誌のインタビューに答えて、「通信記録から、攻撃が行われた場所の緯度と経度がはっきりしました。」と述べている。また、それまでの調査が実際の沈没箇所より160キロメートルほど離れていたとも述べている。
調査は続行
![GettyImages-1026160780-76294 GettyImages-1026160780-76294](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-1026160780-76294-29068.jpg?width=800&height=533)
この明らかになった情報を基に、テイラーはグレイバックの沈没箇所を見つけることができると確信していた。
2019年の春、テイラーとチームは真実を明らかにしようと調査を再び開始した。そして、奇跡的に、この調査によってロスト52プロジェクトチームは数十年前に沈没し海底に眠ったままとなっていた潜水艦の船体を見つけることに成功したのだった。
遺体も発見
![GettyImages-1026160786-10572 GettyImages-1026160786-10572](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-1026160786-10572-40388.jpg?width=800&height=533)
ついに喪失したままとなっていた潜水艦を見つけた調査チームは、喜びにわいたものの、すぐに遺体の数々を見つける可能性も高いことを知って胸を痛めていた。
ニューヨークタイムズのインタビューに答えて、テイラーは潜水艦を見つけることができて嬉しかったものの、80人の兵士の遺体を見つけたのはすごく辛いことだったと語っている。チームだけでなく、もちろん、グレイバックで任務についていた兵士らの遺族にとっても、嬉しくも悲しみの瞬間だった。
個人的に影響を受けた人達
![GettyImages-549037525-41809 GettyImages-549037525-41809](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/GettyImages-549037525-41809-75176.jpg?width=800&height=533)
グロリア・ハーニーは、75年間の喪失後、グレイバックが発見されたことによって個人的に影響を受けた人達のうちの1人だ。グロリアの伯父レイモンド・パークス一等兵曹は電気技師として同潜水艦に乗船していたのだ。
グロリアはこれまでに、神のみぞ沈没船の位置を知るといった内容の本を読んではやり切れない気持ちになっていた。幸い、調査チームはこれが間違っていることを証明してみせたのだ。もちろん、この発見によって影響を受けたのはグロリアだけではなかった。
その他の発見
![Capture.jpg-70146 Capture.jpg-70146](https://www.japacrunch.com/wp-content/uploads/2021/05/Capture-70146-83793.jpg?width=800&height=533)
グレイバックの発見は素晴らしいものだったが、ここで重要なのは、第二次世界大戦中に喪失した艦船で見つかっていないものは他にも多く残っているということだ。しかしながら、どこを探すべきかなど沈没箇所の手がかりが得られていないものも多い。
これらは歴史的にも極めて重要だが、これらの艦船で無数の命が失われたこともまた忘れてはならない。我々は現在の平和に感謝し、戦争で死した犠牲者に思いをはせることも忘れてはならない。