ロマノフ家の貴重な最後の写真

ロマノフ家がロシアを治世していた頃、すでに人々の間では支配階級に対する不満が積もっていた。しかし、一連の暴力的な弾圧と第一次世界大戦でのおびただしい死傷者数が引き金となってロシア革命が起こり、ニコライ2世をツァーリ(皇帝)とするロマノフ王朝は崩壊した。

ここでご紹介する写真の数々は、1918年、実質的にロマノフ王朝が崩壊するまでの王家の暮らしぶりを表している。残忍な支配をしいたロマノフ家だが、その墓が見つかったのは死後60年以上経ってからだ。ロマノフ王朝にまつわる衝撃的な事実や、プライベートな王家の写真をご覧いただきたい。

ロマノフ家の墓、1979年に見つかる

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Universal History Archive/Universal Images Group via Getty Images
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ロマノフ家の処刑後、ソビエト連邦の指導者らの指示のもと、遺体は2ヶ所に分けて埋葬されており、墓標もなく、その場所自体も秘密にされていた。在野史学者らによって皇帝一家の墓が見つかったのは1979年のことだが、その後の遺伝子検査によって、墓はロマノフ家のものであることが証明されている。

ロマノフ家の遺骨は掘り起こされ、エカテリンブルグにある法医学検査局に移された。在野の史学者らによってニコライ2世、アレクサンドラ、そして娘のオリガ、タチアナ、アナスタシアの遺体が発見されたものの、アレクセイとマリアの遺体は2007年まで見つからなかった。そしてこの後、一家の銃殺事件について数々の調査が再開されることとなった。

海岸で過ごした日

Laski Diffusion/Getty Images
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このロマノフ一家の写真は、イェール大学のバイネッキ図書館に所蔵されている6冊のアルバムの中から見つかったものだ。回収されたアルバムにおさめられていた多くの写真は、ロシア皇帝その人、ニコライ2世によって撮られたものだった。

ロシア最後の皇帝となったニコライ2世の子ども達は、ビーチに遊びに来ていたのだろう、浅瀬に立ってポーズをとっている。この写真には3人の娘と、皇位を継ぐと見られていた皇太子アレクセイ・ニコラエヴィチが写っている。年のころは13歳くらいだろうか。

軍の訪問

World History Archive/UIG via Getty images
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この写真は、ニコライ2世が子どもらを連れて、第一次世界大戦中にロシアのクバーニ・コサック軍を訪問したときのものだ。この戦争中、年上の皇女らは皇后アレクサンドラと共に赤十字で傷ついた兵士らの看護にあたったが、皇女アナスタシアはまだ幼かったため、兵士らとチェッカーやビリヤードに興じて士気を高めた。

この大戦中、ニコライ2世は前線で軍の指揮を執っていたが、その間内政を任されたアレクサンドラが独裁政権的なやり方をしたため混乱が起こる。当時、アレクサンドラが敵国ヘッセン大公国(後のドイツ)の子女であったことからも、ロマノフ家の評判を下げていた。

皇后アレクサンドラ、皇女タチアナと散歩

cyphex2002/Pinterest
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これは皇后アレクサンドラと第二皇女のタチアナ・ニコラエヴナが散歩をしている写真だ。タチアナはロマノフ家の皇女らの中でも、最もその名を知られており、母アレクサンドラに最もよく似ている娘で、母の一番のお気に入りだとさえ言われていた。

タチアナは第一次世界大戦が勃発したとき、母アレクサンドラと姉オリガと共に赤十字社の看護師として働き、ツァールスコエ・セローの敷地内にある民間病院でケガをした兵士らの治療にあたった。その後、1917年ロシア革命でロマノフ家は幽閉される。

ニコライ2世と4姉妹

Laski Diffusion/Getty Images
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回収されたロマノフ家のアルバムの写真には、ニコライ2世が皇女マリア、アナスタシア、オリガ、タチアナと写ったものもあった。この四姉妹に続いてその後、皇太子アレクセイが生まれている。オリガはタチアナと最も仲が良かったという。

この仲良し2人は常に一緒で、人々はオリガとタチアナを「ビッグ・ペア」と呼んでいた。一方、マリアと妹のアナスタシアは「リトル・ペア」と呼ばれていた。オリガとタチアナのように、妹ら2人も部屋を共にし、似たような服を着ていたという。この4姉妹はできる限り質素に育てられ、病気でない限りは固いベッドに寝て、朝には冷水風呂に入っていたようだ。

ロマノフ家の4姉妹

romanovfamilybr/Facebook
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これはロマノフ家の姉妹であるオリガ、タチアナ、マリアとアナスタシアで、一家が銃殺されるちょうど2年前の1916年に撮影されたものだ。パールのネックレスを身につけ、イブニングドレスを着た姉妹らがフランス製の家具が配された大広間でポーズをとっている。

その背後には楽譜が置かれたオルガンがあるが、ニコライ2世の娘らは皆、このオルガンで弾き方を覚えたようだ。タチアナは4姉妹の中でも、最もオルガンが上手だったと言われていた。この写真ではリラックスした表情がうかがえ、その後まもなくロマノフ家の姉妹に起こる悲劇の兆候すらない。この写真撮影からちょうど1年後に、家族は幽閉されることとなる。

皇女ら、頭髪を剃る

ponnyjane/Pinterest
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この写真に写る4姉妹は、1年ほど前に正装をしてオルガンの前で撮影されたときとはすっかり様相が異なって見える。大公女らは麻疹にかかり、1917年の春に頭を剃ったのだ。軟禁されたことで、ロマノフ家の健康状態は損なわれたのだろう。

第一次世界大戦中に赤十字社の看護師として働いていたように、傷ついた兵士らの看病ができないことにタチアナは怒っていたと言われている。タチアナは1917年4月、同僚看護師だったヴァレンティーナ・チェボタレフに宛てて「朝起きても、体のどこも悪くないのに家で座っているだけで包帯を替えに行かないなんて、すごく不思議な気持ちです。」としたためている。

ヴォルフスガルテンで遊ぶ子ども達

mdam635/Pinterest
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ロマノフ家の子ども達の身に起こった陰惨な最期を知りながら、こうして子ども達が遊んでいる写真をみるのは何やら不思議な気がする。この写真は、王家の別荘であるヴォルフスガルテン城で、皇女マリア、皇太子アレクセイ、ヘッセン大公国の大公世子ゲオルク・ドナトゥス、皇女アナスタシアがおもちゃの荷車で遊んでいるところだ。

これは1910年の秋、アナスタシアがわずか9歳、アレクセイが6歳、マリアは11歳の時に撮影されている。ロマノフ家の子ども達の中で、20歳まで生きられたのはオリガとタチアナのみだった。長子のオリガは処刑時には22歳だった。

トボリスクでの軟禁生活

Hulton-Deutsch/Hulton-Deutsch Collection/Corbis via Getty Images
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この写真から、トボリスクで軟禁されていたロマノフ家の様子を垣間見ることができる。元皇帝ニコライ2世がタチアナ、オリガ、使用人の少年、アレクセイ、アナスタシアと温室の前にある柵に腰かけている。1917年8月、臨時政府首相のアレクサンドル・ケレンスキーは、高まる革命の動乱から一家を保護するという名目で、ロマノフ家をトボリスクに避難させた。

一家は元知事の邸宅に住み、1917年ボリシェヴィキが権力を握るまでの間、比較的快適な生活を送ったがその後、幽閉は次第に厳格なものになる。この写真は1917年9月、ロマノフ家の生活が厳しくなるちょうど1ヶ月前に撮影されたものだ。

皇后アレクサンドラの生前最後の写真

irishsmith2003/Pinterest
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この写真は、皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの生前最後の写真だと考えられている。シベリアのトボリスクにある元知事の邸宅のバルコニーで、傘をさして座っている。横に座っているのは娘のオリガとタチアナだ。この写真は1918年春に撮影されたものだ。ロマノフ家は皆、ヤコフ・ユロフスキーが率いるボリシェヴィキ軍によってこの数ヶ月後に処刑されている。

皇后アレクサンドラはイギリスのヴィクトリア女王の孫にあたる。アレクサンドラが神秘主義者グリゴリー・ラスプーチンに傾倒したこと、夫に大きな影響を与えていること、特にシベリアにおける支配権の放棄を反対したこと、またアレクサンドラが当時敵国だったドイツの血筋であったこともロマノフ王朝の評判を損ねる原因となった。

皇帝と娘たち、壮麗なヨットの上で

FINE ART IMAGES/HERITAGE IMAGES/GETTY IMAGES
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帝位をはく奪される以前、皇帝ニコライ2世と家族は信じられないほどの富や贅沢を味わっていた。この写真からは、皇帝が皇室ヨット「スタンダルト」で4人の娘と休暇を楽しんでいる様子がうかがえる。スタンダルトはニコライ2世の父親アレクサンドル3世の命を受けて建造が開始された。

クリスタルのシャンデリアが下げられ、マホガニーのパネルが敷き詰められたスタンダルトは、当時、最も優雅な航海船の1つと言われ、まるで皇帝一家のための海に浮かぶ宮殿のようだった。また、1914年、第一次世界大戦の引き金ともなるオーストリア大公フェルディナンドが暗殺されたことを皇帝一家が耳にしたのも、このヨットの中でのことだった。

幽閉中のアナスタシア

mervegapelaez/Pinterest
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この皇女アナスタシアの写真は、多くの人の記憶に残る写真の1枚だが、これは処刑の直前、1918年春にトボリスクで幽閉されているときに撮影されたものだ。部屋で机に向かっている。20世紀、アナスタシア生存説など誤報が多く流れ、これにインスピレーションを得て多くの本や映画が作られた。当時、10人以上の女性が自分こそが皇女だと主張していた。

詐称者の中で最も有名なのが、アンナ・アンダーソンだった。アンダーソンは1984年に死去し火葬されたが、実施されたDNA鑑定ではロマノフ家との遺伝的な繋がりは認められなかった。しかしながら、2ヶ所の墓地で見つかった遺骨に対して行われたDNA鑑定により、ロマノフ家の4姉妹と両親、そしてアレクセイが特定され、結果的に1918年、一家全員が殺害されていたことが明らかとなった。

ツァールスコエ・セローでの幽閉生活

Universal History Archive/Getty Images
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ロマノフ家の軟禁は、ツァールスコエ・セローのアレクサンドロフスキー宮殿で始まった。もはや君主ではなくなり、衛兵らに「ニコライ・ロマノフ」と呼ばれる立場になったニコライ2世は、臨時政府によって自宅に軟禁されていた家族と宮殿で再会した。

この写真は、幽閉中のオリガ、アレクセイ、アナスタシアとタチアナが地面に座っているところを写したものだ。アナスタシアはタチアナのお気に入りだったフレンチブルドッグのオルティポを膝に抱いている。この写真は、1917年5月に撮影されている。つまり、ロマノフ家の子ども達は父親と、アレクサンドラは夫と1917年3月22日に再会してから数ヶ月後のことだ。

アレクセイとニコライ2世、木を切る

evasmoreira/Pinterest
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これは皇太子アレクセイと皇帝ニコライ2世の写真で、バイネッキ図書館に所蔵されている。そしてこれは、1917~1918年の冬頃、トボリスクで軟禁生活を送っていた頃におそらく皇女マリア・ニコラエヴナによって撮影されたものだと思われる。

1917年10月、ボリシェヴィキが権力を握り、ロマノフ家の幽閉は次第に厳しくなり、快適さからはかけ離れていった。この写真のアレクセイと父親はノコギリで木を切っているが、献身的な使用人が10人もいなくなったためだ。また、この頃一家に与えられるのは兵士への配給品のみとなった。

アレクセイ、タチアナ、そして愛犬のフレンチブルドッグ

lefthandoflight/Pinterest
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この写真は1917年春、ツァールスコエ・セローでロマノフ家が幽閉されているときに撮影されたものだ。アレクセイとタチアナ、愛犬のフレンチブルドッグ、オルティポが地面に座っている。オルティポはタチアナが戦時中に看護師として働いていた頃、病院で仲良くなった患者ドミトリー・マラマから贈られた犬だ。

犬は家族のお気に入りとなり、しばしば日記や手紙にも登場している。最終的にオルティポは皇女タチアナと共にトボリスクまで移動している。一家はトボリスクまで汽車で移動しており、駅から邸宅までのぬかるみを歩く間、タチアナは犬とスーツケースをそれぞれ腕に抱えてバランスを取ろうとした、と記録されている。

皇太子アレクセイと父親

Universal History Archive/Universal Images Group via Getty Images
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バイネッキ図書館に所蔵されているこの写真も、ロマノフ家のプライベートな1枚だ。まだ幼い皇太子アレクセイが父親ニコライ2世とテーブルについている。このスナップ写真からは、水面下で起ころうとしている政治的混乱はかけらほども見られない。

皇太子アレクセイは、皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラにとって、4人の娘の後に生まれた待望の男子だった。両親や姉達から溺愛されて育ち、親しみを込めてアリョーシャと呼ばれていた。だが、アレクセイは母親の家系から遺伝的にもたらされた血友病を患っており、打撲のようなちょっとしたケガでも致命的となる可能性があるため、健康は常に不安材料だった。

抑留中の作業

Library of Congress
Library of Congress

アメリカ合衆国議会図書館に所蔵されているこの写真は、1917年春に撮影されたもので、ツァールスコエ・セローで幽閉中だった頃のタチアナの様子を表している。兵士の助けを借りて、担架に芝生を載せて運んでいる。幽閉中、家族を一つにまとめる責務はタチアナの肩にかかっていた。

タチアナはエカテリンブルグに送られる父親についていくよう母親に促す一方、病気で移動することができないアレクセイと姉妹らを助け、下着に宝石を縫い付け、警護兵に見つかることがないようにした。これは万が一、逃亡できた場合に新しい生活を始められる資金にするつもりだったようだ。

ニコライ2世、退位後

© CORBIS/Corbis via Getty Images
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この写真は1917年3月15日、皇帝ニコライ2世が強制的に退位させられた後、畑で兵士らに囲まれている様子だ。ニコライ2世はロシア最後の皇帝であり、治世の終わりには、世界の強国であったロシア帝国が経済的・軍事的に破綻し、崩壊していった。

ニコライ2世は、ホドゥインカの悲劇、血の日曜日事件、ロシア第一革命の武力鎮圧、日露戦争敗戦の責任、反ユダヤ主義による虐殺などが治世中に起こったために「血のニコライ」と呼ばれていた。第一次世界大戦ではおよそ330万人ものロシア人が死亡し、さらに国内の食料および生活必需品が不足したことによって、最終的にはロマノフ王朝の破滅へと繋がった。

幽閉前のツァールスコエ・セローにて

lilacaraby/Pinterest
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この写真はツァールスコエ・セローでロマノフ家が幽閉される1年ほど前の1916年に同地で撮影されたものだ。アレクセイの両隣に母親の皇后アレクサンドラと父親の皇帝ニコライ2世が座っている。ツァールスコエ・セローがロマノフ家にとって幽閉地となる以前には、美しいアレクサンドロフスキー宮殿と庭園は一家が夏に過ごす別荘地だった。

ツァールスコエ・セローは、サンクトペテルブルクを訪問する貴族階級が滞在する街でもあった。サンクトペテルブルクの中心地からわずか25キロメートルしか離れておらず、立地も良かったようだ。血の日曜日事件後、冬宮殿は危険すぎるため、アレクサンドラはアレクサンドロフスキー宮殿に永住したいと考えていた。

アナスタシアはいたずらっ子

Apic/Getty Images
Apic/Getty Images

このアナスタシアの写真は1915年か1916年、ロマノフ家が幽閉される前に撮影されたものだ。一見すると気持ち悪いと思うかもしれないが、これは単にアナスタシアが義歯でふざけているだけだ。もちろん、当時の義歯は死者から取られた歯で作られていたため、そうしたことを考えると、この写真はやはり少し不気味だ。アナスタシアは陽気で、エネルギッシュで、かつ、いたずらっ子として知られている。

アナスタシアはよく家庭教師に悪ふざけをしていたようだ。また、エネルギッシュな性格に反して病弱だった。ケガをすると出血が通常よりも多く、母親のように血友病の遺伝子を保因していたのあろうと推測されている。

イパチェフ館の地下

Fine Art Images/Heritage Images/Getty Images
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処刑される前、ロマノフ一家はエカテリンブルグのイパチェフ館に移された。1918年7月17日深夜頃、ヤコフ・ユロフスキーはエカテリンブルグに危機が切迫しているため、安全な場所に移動するという口実の下、家族全員に地下に行くように命じた。

家族は地下室に連れて行かれ、そこで待つようにと言われた。一家には処刑文が読み上げられたが、わずか数秒後には一斉に射撃されている。あまりにも連続的な銃撃を行ったために火薬の煙や天井の埃が部屋に充満し、これを拡散させるため、衛兵らは一旦ドアを開けなければならないほどだった。ロマノフ家の子ども達は下着に宝石を縫い付けていたため、最初の一斉射撃では負傷しただけでまだ生きていたという。

架空のアナスタシア

Laski Diffusion/Getty Images
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これはアナスタシア・ロマノフが、義歯で面白い顔をしているもう1枚の写真だ。アナスタシアは、ロマノフ一家の殺害後、ロシア皇室の中でも最も人々の話題にのぼった人物だ。

それは、処刑後も実はアナスタシアが生きのびていたという噂によるためでもあるが、前述したように、これは事実ではないことが分かっている。もしアナスタシアが生きていたら、彼女の人生はどのようなものになっていただろうか、ということを描いた子ども向けのアニメ映画まで作られたほどだ。アナスタシアは架空の人物でも言い伝えに出てくる人でもなく、むしろ、この写真を見ると分かるように、他の子と変わらない普通の少女だった。

姉妹

Laski Diffusion/Getty Images
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この写真では、ロマノフ家の姉妹が写真撮影のためにポーズをとっている。皇帝ニコライ2世、皇后アレクサンドラと5人の子ども達、オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア、アレクセイだ。ご存知の通り、アナスタシアには長年にわたり生存説がささやかれていたが、アナスタシアの姉オリガにも同じような噂があった。

長年にわたり、多くの人が自分がロシアの皇室メンバーの末裔であると主張していたが、マルガ・ブーツという名の女性は自分こそ皇女オリガだと主張したのだ。ロシア皇室の親せきの中には実際に彼女がオリガだと信じた者もおり、ニコライ2世を名付け親に持つオルデンブルク大公世子のニコラウスは、1970年に死去するまでマルガを経済的に支えたと言われている。

タチアナ

virgomania888/Pinterest
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ロマノフ家の第二皇女タチアナが、家族と共に夏にクルーズに出かけたときの写真だ。タチアナは4姉妹の中でも「最も美貌の皇女」として知られていた。髪の色は赤褐色で、目の色は濃い青灰色だったという。また、姉妹の中でも最も母親によく似ているとも言われていた。

家族の他のメンバー同様、タチアナもまた「祈祷僧」グリゴリー・ラスプーチンと親交があった。ラスプーチンがタチアナに会ったのは、タチアナがまだ12歳の頃だったが、ラスプーチンがタチアナや他の姉妹が寝間着を着ていたときに会っていたために、物議を醸した。

タチアナとグリゴリー・ラスプーチン

Wikimedia Commons/Public Domain
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ロマノフ家はラスプーチンを崇拝し、ラスプーチンがすることなすことすべて「神聖」だと見なしていた。しかしながら、皇帝の妹である大公女クセニア・アレクサンドロヴナは、皇女らの世話係の1人から、オリガとタチアナの就寝時間前にラスプーチンが訪ねてきて、2人を「優しく抱擁」していたと聞き、恐ろしくなった。

クセニアはロマノフ家をロシア正教会の分派であるフリストだと見なし、ラスプーチンに疑惑を抱いていた。その後、ラスプーチンに疑惑の目を向けていた世話係は解雇されている。ラスプーチンが4姉妹を誘惑しているという噂まであった。結局のところ、ラスプーチンはロマノフ家が処刑される少し前に暗殺されている。

皇后アレクサンドラ

paolo7929/Pinterest
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皇后は多くの人からあまり好かれておらず、周囲には冷酷であるように映っていた。しかしアレクサンドラは無愛想というよりはむしろ内気な性格で、人柄も素っ気ないところがあり、気心の知れた数人としか関わろうとしないため、他の貴族から誤解されていたところがあった。

内気であり、人と社交的なかかわりをもつことを苦痛に感じていたことから、薬物の力を借りていたとも考えられている。ある時、アレクサンドラは少ない友人の1人に、自身がバルビツール酸系、特にベロナール依存症かもしれないということを打ち明けている。処刑の数年ほど前の手紙には「ベロナール漬けになっている」と書き記されている。

マリア

Wikimedia Commons/Public Domain
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ロマノフ家の第三皇女マリアは、処刑の最初の銃撃後もまだ生きていたと言われている。最初の銃撃後、まだ生きていた妹のアナスタシアと共に、外に止められていたトラックに運び出され、「座り込んだまま泣き叫んでいた」とも言われている。また、処刑からマリアが逃れ、生きているとする噂もあった。マリアの姉2人と同じように、マリアの子孫だと主張する人々もいた。

しかしながら、歴史学者らはこの処刑を逃れた皇室メンバーがいる可能性を否定している。生存説の中には、マリアとアナスタシアだと主張する若い女性2人がウラル山脈の奥地にある山村で司祭にかくまわれているというものもあった。その女性らは、アナスタシア・ニコラエヴナとマリア・ニコラエヴナの名で埋葬されている。しかし結局のところ、これが真実である証拠は見つかっていない。

オリガ

Laski Diffusion/Getty Images
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この写真はオリガ・ロマノフがベッドに横たわっているところを写したものだ。長女オリガの結婚話はロシア社会でもよく話題に上った。一時オリガは、ニコライ2世のいとこにあたるロシア大公ドミトリー・パヴロヴィチと婚約していたとされている。エドワード・ラジンスキーという名のロシアの作家は、ドミトリーがグリゴリー・ラスプーチンを酷く嫌っていたため、婚約は後に破棄されたとしている。

エドワードが著した本「ラスプーチン・ファイル」の中で、ドミトリーはバイセクシャルだったとも噂されていたと記されている。噂が真実かどうかは定かではないが、婚約が整うことはなかった。オリガは他にも、ルーマニア王太子カロル、イギリス王太子エドワード、セルビア王太子アレクサンダルとの結婚が噂されていた。オリガはロシア人将校パヴェル・ヴォロノフに恋していたとも知られているが、社会的な地位の違いから2人の関係が発展することはなかった。

母と娘たち

LoveCatsRo/Pinterest
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この写真は1916年頃に撮影されたもので、母親のそばに座っているのはオリガとアナスタシアだ。子どもらは皆、両親と仲が良かった。オリガは読書が好きで、母親が好きそうだと思う本を勧めていたこともあったという。

アナスタシアは、いたずらっ子でお茶目な性格で知られ、家族をよく笑わせていた。子ども達が幼い頃には、アレクサンドラは娘らにお揃いの洋服をよく着せていた。アレクセイが生まれると、待望の皇太子として、一家にとってかけがえのない存在となる。アレクサンドラにとっては、特に自分が血友病の遺伝子を保有していたためにアレクセイが血友病に冒されたと考え、自責の念もあったのか、息子を守らなければと考え溺愛した。

アレクセイとタチアナ、兵士らに囲まれて

anne_leone/Pinterest
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アレクサンドラ庭園を楽しんでいる家族の写真は、ちょうど1年後に撮影された写真とはまったく対照的だ。この写真では皇女タチアナとアレクセイがツァールスコエ・セローのアレクサンドラ庭園でシャベルを持って座っている。

周りにはロシア人兵士らがおり、軟禁されている様子が見てとれる。アレクセイは血友病のために肉体労働をすることは困難だったが、後に病状が悪化したのはこうした労働によるものだったのかもしれない。そして病状悪化に伴い、後に両親とマリアがエカテリンブルグへ移送された時に、すぐに共に移動することができなかった。一方、タチアナは第一次世界大戦時に看護師として従軍した経験から、肉体労働には慣れっこだった。

アレクサンドラの晩年

KyleWOrton/Twitter
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このアレクサンドラの写真は、処刑される数年前のものだ。一人息子の病気を治そうとしてラスプーチンをロマノフ家に招きいれたのはアレクサンドラだった。

アレクサンドラは、ラスプーチンこそ血友病を治癒することができるかもしれないと考えていたようだった。晩年、アレクサンドラは家族と共に幽閉される中で、体調不良によるものだったのか、はたまた精神的な疲弊によるものだったのかは分からないが、車いすで生活をするようになっていた。皇帝同様、アレクサンドラは処刑の際の最初の銃撃で殺害されたと言われている。

アレクセイ

sscroggs/Pinterest
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この写真は、末っ子のアレクセイが家庭教師の子ども達と遊んでいる様子をとらえたものだ。第一次世界大戦は1914年に勃発したが、この時点では皇太子アレクセイがまだ王位継承者だと見なされていた。ロシア君主制では、男系男子が帝位を継承するとされていた。

もちろん、アレクセイは血友病を抱えていた。病気のため、特に甘やかされて育ち、時にはその行動が褒められたものではないが見過ごされることもあった。成長したアレクセイは運試しをしていたようだとも言われており、結果的に何度も重傷を負っている。

皇室専用動物園のゾウ

Laski Diffusion/Getty Images
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これはツァールスコエ・セローの宮殿近くで皇太子アレクセイと皇室のゾウを撮影したものだ。1914年に撮影され、ニコライ2世の日記に貼られたこの写真には、「今日アレクセイを伴って池にゾウを連れて行き、水浴びをしている様子を見た。」と記されている。ゾウは皇室が所有する敷地内の動物園で飼育されていたようだ。しかしながら、1917年ロシア革命以降、この動物園は閉鎖されている。

その後動物園にいたゾウやその他の動物がどうなったのかは分からない。ただ、こうしてプライベートな動物園を持つことができた家族の幸せそうな写真を見ながら、その後に彼らを待ち受ける運命を思うと少しやり切れない。

知られざる運命

paolo7929/Pinterest
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この写真は処刑の4年前、つまり1914年に撮影されたもので、オリガとアレクセイ、タチアナが写っている。4人の姉達の中でも、特にオリガがよくアレクセイの面倒を見ていたと言われている。ただ、オリガはこの時期、アレクセイは彼女をもってしても管理しきれないとこぼしている。少年によくありがちではあるが、この頃すでによくいたずらをしていたようだ。

いたずら話の中には、アレクセイが正式な夕食会でテーブルの下に潜り込み、女性ゲストの靴を取ったというものもある。父親に見せるとすぐに靴を戻すようにと叱られたアレクセイだったが、靴を戻す前に、イチゴを靴の上に置くことを忘れなかったようだ。

いたずらっ子のアレクセイ

paolo7929/Pinterest
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アレクセイのいたずら好きな性格は、この写真からも見てとれる。これは父親と川で遊んでいるときの様子だ。血友病を患っていたにもかかわらず、母親は心配しっぱなしだったことだろうが、アレクセイの遊び方は荒っぽかった。運命が残酷な時を告げる前に、一家はシベリアへと移された。

そこでアレクセイは荒っぽい行動の結果、酷いケガを負う。なんと階段を下りるのにそりを使ったようで、結果的に鼠径部を酷く痛めることとなったのだ。出血が酷かったため、殺害される前の数週間、車いすで過ごしていた。

愛犬家

Keystone-France/Gamma-Keystine via Getty Images
Keystone-France/Gamma-Keystine via Getty Images

これは、アレクセイと飼い犬ジョイの写真だ。殺害されるわずか2年前の1916年に撮影されている。1918年、ボリシェヴィキによって一家が処刑されたときにジョイも殺されたと考えられていたが、シベリアン・タイムズ紙にはジョイが実際には死を免れていたと書かれている。

どうやら処刑部隊の1人が犬まで殺すことはないと考え、逃がしてやったのだろう。この犬は救出された後、イギリスのウィンザーへ連れて行かれ、イギリス王室メンバーと晩年を過ごしたと言われている。ロマノフ家が飼っていた3匹の犬のうち、2匹が処刑時に殺されたことを考えると、ジョイが生きのびたのは奇跡的だったと言える。後に、ジョイの墓はウィンザー城の王家の犬の墓地で見つかっている。

ボートに乗って

elroysgirls/Pinterest
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これは、フィンランドの海でボートに乗っている皇帝ニコライ2世と息子アレクセイの写真だ。この写真は、父子だけで写っていることからも非常に印象的だ。アレクセイが血友病だったにもかかわらず、ニコライ2世はアレクセイを法定推定相続人として、ゆくゆくは皇帝になる者として、様々な行動を共にしていたことで知られている。

皇帝はアレクセイを長い会議などにも同席させていたようだ。これは、皇帝としての様々な任務や責任を認識させるためだったという。アレクセイは末っ子であったが、唯一の男子だったために唯一の後継ぎだと考えられていた。ロシア王室の世界では、男系男子のみが皇帝になるのが習わしだった。

兵士らを訪問

beamoroo/Pinterest
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この写真は第一次世界大戦中に撮影されたものだ。ロマノフ家の姉妹は士気を高めようと、よく兵士らを訪問していた。戦時中には、姉妹は看護師としても働いていた。オリガと共に働いた看護師の1人にヴァレンティーナ・チェボタレフという名の女性がいた。

ヴァレンティーナの日記には、オリガはケガをした兵士らの看病をしていたが、その兵士の中でもドミトリー・シャフ=バゴフが好きなようだと記されている。オリガは電話で彼と話したり、病院から手紙が届くのを非常に楽しみにしていたようだ。ドミトリーの方もオリガに心を寄せていたらしく、オリガが望むなら、喜んでラスプーチンを殺害すると主張していたという。

看護師として働く姉妹

Wikimedia Commons/Public Domain
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この写真は、第一次世界大戦中に看護師として働くロマノフ家の姉妹、具体的には上2人のタチアナとオリガを撮影したものだ。オリガはケガをした兵士らの治療をしては哀れんでいた。第一次世界大戦もほとんどの戦争同様、かなり厳しく、恐ろしいものだった。

この姉妹がかなり酷い光景を目にしたのは間違いないだろう。おそらくストレスからくるものだろうが、オリガは様々な方法で感情をあらわにしていたようだ。だが、皇帝が娘らを戦争の残虐な現場から遠ざけて守ることを選ばず、むしろ戦争の真っただ中で働かせていたことは非常に興味深い。

オリガのストレス

united_nursing_associate/Pinterest
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結局、死にゆく兵士や恐ろしいほどのケガをした兵士らの治療や看病をすることで、オリガはストレスをためていった。数ヶ月にもわたり、ストレスから窓を割ったり、激しい怒りをぶつけたりしていた。まもなく、こうしたストレスのために、直接兵士らの治療をする仕事から事務仕事へと移される。1915年、オリガはヒ素注射まで受けている。当時、ヒ素は毒だと考えられておらず、むしろうつ病や不安症などの治療に使われていた。

オリガはまた、政治状態やロシアの人々から自分たち皇室がどのように受け止められているかについても良く理解していた。そのため、家族に何が起こるのだろうかと、絶えず不安に陥っていた。

追い出された

pamelarg/Pinterest
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王室は最終的にケレンスキー政府(権力を握っていた人々)によってシベリアのトボルスクに送られた。王室の一部のメンバーは、代わりにクリミアに送られた。しかし、直系の王族全員は、シベリアに送られたのだった。ケレンスキーは、一族の安全のためだと主張したが、多くの人が他の動機を疑っていた。

クリミアに到着した他のメンバーは全員、革命中もを生き延びた。場所として、シベリアが選ばれたのは、流刑が当たり前だったからだと噂されていた。皇帝と彼の先祖が多くの人をシベリアに追放したのだから、彼らもそのような運命をたどって当然だと言われていたのだった。

最期の写真

shoegals/Pinterest
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この写真は、1918年に撮影されたもので、ロマノフ家が処刑されたのと同じ年だ。アレクセイと母親のアレクサンドラが一緒に写っている。ケレンスキー政権は最終的にボリシェビキに陥落し、王家をさらに軽蔑した。その年の4月、一家は処刑される前の最後の場所となるエカテリンブルクに移された。

亡命を余儀なくされた一家は、死の前に完全に孤立した生活を送っていたが、「内心は常に平静」と言われていた皇帝を除いては、一家のほとんどの者に、この生活の辛さが重くのしかかっていたようだ。家族はまた、外の世界から切り離され、何が起こっているかのニュースを聞く手段もほとんど持っていなかったので、彼らは世の中で何が起こっていたかを知っていた可能性はとても低い。

最後の家族の肖像画

Universal History Archive/UIG/Getty Images
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ロシアのニコラス2世とその妻アレクサンドラが、娘のオルガ、マリア、アナスタシア、タチアナ、息子のアレクセイを含む子供たちと一緒に撮影されたものだ。この肖像画はレヴィツキー・スタジオで撮影されたもので、家族全員の最後の肖像画の一つとなっている。

1913年に撮影されたこの写真は、ロマノフ家がまだ統治していた頃に撮影されたもので、それから2年も経たないうちに、1917年3月15日、皇帝ルイス2世は革命の結果、弟のミカエル・アレクサンドロヴィッチ大公にその地位を譲って退位することになった。しかし、彼もまた帝国の権威を受け入れることを辞退し、最終的にはロマノフ王朝のロシア支配を終了させることになったのだ。

ロマノフが負傷した兵士を訪問

Laski Diffusion/Getty Images
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皇帝ニコライ2世は、ブラッディ・サンデーの統制の悪さと第一次世界大戦におけるロシアの役割で知られている。デモ隊がニコライ2世にサンクトペテルブルクの労働条件の改善を求める訴えをしたところ、軍隊がデモ隊に発砲し、1000人以上が死亡した。

これらの出来事に対する彼の行動は、最終的に彼の退位につながり、彼と彼の家族全員が処刑されることとなった。退位前には、病院で負傷した兵士を見舞うロマノフ家の人々が多くいた。この写真は、皇帝ニコライ2世の娘マリアとアナスタシアの面会の様子だ。

ニコライ2世の自撮り

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Laski Diffusion/Getty Images
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これは1915年に皇帝ニコライ2世を皇帝自身が撮影したものだ。ニコライ2世はアマチュア写真家で、家族や日常生活の写真を撮るのが好きだった。

趣味の写真には細心の注意を払い、たくさんのアルバムに写真を大切に保管していた。ニコルズ二世は、三人目の娘マリアにも写真撮影の魅力を伝えていた。マリアも常に自分の目を通して人生を撮影することにとても興味を持っており、多くの家族写真の撮影をしたのだった。

家族の伝統

steluta0901/Pinterest
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ロマノフ一家が逮捕され追放された後、彼らは一緒に料理人を連れてきた。これは決して俗物的な振る舞いではなく、家族で一緒に食事をするという伝統と大切さを守りたかったからだ。

亡命という混乱と不確実性の中で、毎日一緒に食事をすることで、ロシア革命前の幸せな生活を思い出すことができたのだ。亡命中の過酷な状況にもかかわらず、ロマノフ家の誰一人として、捕虜になった時の限られた食事に不満を持つ人はいなかった。

ロマノフ姉妹の日記

cochise12/Pinterest
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ロマノフ家は亡命生活の残りの年も大切に過ごした。好きなことができなくなったので、料理を中心とした生活を送ることになった。特にロマノフ家の姉妹は、料理とパン作りを熱心に学び、その中でもパン作りは、4人の姉妹のお気に入りだった。

一家が処刑された後、彼女たちの日記が発見された。何を食べたか、どこで食べたか、誰と一緒に食べたかなど、家族の食事についての詳細が頻繁に書かれていた。オルガの日記からは、”いつものようにお茶を持っていた。私は私の友人の間に座った。ヨットのサロンで食事をした。とても居心地が良かった”と記載されていたのが印象的だった。

“ベイビー”なアレクセイ

Alexei Nikolayevich
Photo 12/Universal Images Group via Getty Images
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1904年8月12日、アレクセイ・ニコラエヴィチはロマノフ家の待望の男の子として生まれた。皇帝と皇后の末っ子で一人息子であり、ロシア帝国の王位継承者であった。アレクセイは血友病を患って生まれたため、あざができたり、血が固まったりすることがあった。

彼の健康状態のために、アレクセイは、潜在的に生命を脅かす怪我を防ぐために慎重に監視されなければならなかった。その結果、彼は家族全員に溺愛され、皆、彼のことを “ベイビー “と呼んでいた。アレクセイは、わずか13歳で処刑される前に、怪我のために車椅子で人生の最後の数週間を過ごした。

ロマノフ族は1998年に安らかに眠らされた

The cathedral is the burial place of all the Russian Tsars from Peter I to Alexander III, and the remains of the murdered Nicholas II and his family were interred in the Romanov family crypt in 1998.
The Photo Collector/Print Collector/Getty Images
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この写真は、ロシアのサンクトペテルブルクにあるペーター&ポール大聖堂にあるロマノフ家の最後の安息の地を示している。彼らの葬儀は1998年に行われ、残忍で腐った過去との和解を示すために行われた。式典にはロシアのボリス・エルツィン大統領と50人のロマノフ親族が出席した。

何百万人もの人々がテレビ中継された式典を見ようとし、兵士たちがニコラス、アレクサンドラ、オルガ、タチアナ、アナスタシアの棺をレッドカーペットの下に運び、様々なロマノフの子孫や高官たちを前にして式典を行った。式典の後、遺体は家族の墓所に埋葬された。

苦い記念日

Thousands marched to Revolution Square
Nicholas Muller/SOPA Images/LightRocket via Getty Images
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2017年はロシアのボリシェビキ革命100周年で、ロマノフ家の終焉の始まりとなった。この日を記して、共産党のメンバーはモスクワのあちこちで抗議行動を行った。その抗議者の多くは、ウラジーミル・レーニンの写真を持っていた。クレムリンは、人民による革命を支持したくないため、沈黙を貫いた。

プーチン現大統領は、革命は歴史の本に残すのが一番だと言っている。2013年、彼は「我々の国の歴史の中では、政府への反対ではなく、ロシア自身への反対に直面することが多い」と述べた。そして、私たちはそれがどのように終わるかを知っている。それは”国家そのものの破壊で終わる”と述べている。

テレビシリーズ「ロマノフ家」

Amazon Studios
Amazon Studios

2017年11月、「マッドメン」のクリエイターであるマシュー・ワイナーは、「ロマノフ」と題した新しいミニテレビシリーズを制作中であることをハリウッド・レポーターに発表した。アマゾンが制作する「アンソロジー」は、ロマノフ王朝と関係があると思われる人々を描く予定だ。8つのエピソードがあるが、すべてのエピソードが異なるキャスト、異なるストーリー、異なるロケ地で構成されている。

このように物語をまとめているのは、すべての物語に、自分がロマノフ家の子孫であると信じている人々が登場しているということだ。ハリウッド・レポーターが指摘しているように、ワイナーが今回の番組で使う英語のスペルは、つい最近まで「Romanov」が使われていたものだそうだ。英語のタイトルでは、「Romanoffs」とされている。