今だに謎が多く残る未解決、ラシュモア山に隠された金庫室の秘密

ラシュモア山国立記念公園は、サウスダコタ州のブラックヒルズにある国定記念建造物だ。巨大な彫像の制作は1927年から1941年10月まで行われ、アメリカ合衆国の歴史に名を残す4人の大統領(ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、セオドア・ルーズベルト、エイブラハム・リンカーン)の胸像が彫られている。

この一大プロジェクトの設計・責任者となったのは、彫刻家ガットスン・ボーグラムだ。ラシュモア山の胸像は、単に山に彫られた4つの大統領の顔であるだけのように思われるかもしれないが、実はそこには隠された秘密がある。ボーグラムには壮大な計画があり、それを一般の人達の目に触れない場所に隠したのだった。一体、ボーグラムは何を計画していたのだろうか。そして、先人達の胸像の裏には何が隠されているのだろうか。

ラシュモア山の父

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Photo Credit: George Rinhart/Corbis via Getty Images
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1923年、「ラシュモア山の父」として知られる歴史学者のドーン・ロビンソンは、サウスダコタ州の観光客を増やすため記念碑を作るというアイデアを思いつき、その翌年の1924年、彫刻家のガットスン・ボーグラムに連絡した。ボーグラムは、ジョージア州のストーン・マウンテンの山腹に彫られた南軍の将軍らのレリーフのプロジェクトに携わったことでその名が知られていた。

ロビンソンはサウスダコタ州のブラックヒルズでも似たような彫刻を作って欲しいと依頼し、ボーグラムは承諾する。元々は、サウスダコタ州のカスター近くにあるニードルズに制作する予定だったが、調査の結果、ニードルズの花こう岩は薄く、崩れてしまう危険性があった。

当初は大統領の胸像を作る予定ではなかった

Photo Credit: National Park Service
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結局、サウスダコタ州のブラックヒルズにあるラシュモア山に制作することに決めたボーグラムは、ラシュモア山を見て「(完成後)多くのアメリカ人がこの山を訪れることになるだろう」と述べたという。1925年3月3日、議会はラシュモア山の国定記念建造物プロジェクトを承認した。

今日、ラシュモア山には4人の大統領の顔が彫られているが、実は初めからそのように決まっていたわけではなかった。当初は世界中の観光客を呼び寄せるため、世界的に有名な人の胸像を作る予定だった。さらに、アメリカの歴史上有名な出来事のレリーフを作るという案もあったのだ。しかしながら、最終的には、現在のような4人の大統領の胸像を作ることに決まったのだった。

なぜこの4人の大統領になったのだろうか?

Photo Credit: KAREN BLEIER/AFP/Getty Images
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ドーン・ロビンソンがラシュモア山のアイデアを思いついたときには、既にアメリカには29人もの大統領がいた。ならば、ガットスン・ボーグラムはどうしてこの4人に絞ったのだろうか。

国立公園局によると、この4人はすべてアメリカを象徴する人物として選ばれているという。つまり、ジョージ・ワシントンはアメリカの建国を、トーマス・ジェファーソンは成長を、セオドア・ルーズベルトは発展を、そしてエイブラハム・リンカーンは(南北戦争後の)団結を示しているという。他にも候補者は挙げられていたが、ボーグラムはこの4人こそ、アメリカ合衆国の本質を表していると考え、記念碑を作ることに決めたのだった。

ラシュモア山の問題点

Photo Credit: Smith Collection/Gado/Getty Images
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実際に制作作業が始まる前に、このプロジェクトは妨害にあう。記念碑の設計によると、ここら一帯の地形を変えなければならず、制作後にその地形や地質が元に戻ることはないということが問題となっていた。

そもそも、サウスダコタ州のブラックヒルズは、古くからアメリカ先住民ら(ラコタ族、シャイアン族、アラパホー族等々)の聖地とされていた。しかし、当時すでにアメリカ政府はこの地域一帯を国定公園としていたため、プロジェクトは中止されることはなかった。今日も、アメリカ先住民らは聖地であるこの山で儀式を執り行っている。ラシュモア山をアメリカ政府が使用することについての補償問題は、未だに解決していない。

制作作業の開始

Photo Credit: George Rinhart/Corbis via Getty Images
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1927年10月には制作作業は始まっていた。ガットスン・ボーグラムは400人も作業員を雇い、デザインしたモチーフを彫り進めた。ボーグラムにとって、この記念碑は単なる作品の1つではなかった。これは自身の最高傑作となり、さらに今後何世代にもわたるアメリカ人への贈り物となるものだった。

さらに、ボーグラムは大きな計画を胸の内に秘めていた。記念碑を山の側面に彫られた胸像以上のものにしようと考えていたのだ。将来の人々がアメリカ合衆国について学ぶための手がかりを残しておきたかった。

予算の関係上、計画は大幅に変更

Photo Credit: FPG/Hulton Archive/Getty Images
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ガットスン・ボーグラムは記念碑の設計にあたり、壮大な計画を抱いていた。設計には4人の大統領だけではなく、山肌にルイジアナ購入(1803年、アメリカがルイジアナ州周辺の広大な土地をフランスから買い入れた歴史的な出来事)の地図も加えられていた。この地図の中に、アメリカ合衆国史上、最も重大な出来事を描きたかったのだ。

しかし残念ながら、これは予算の関係上、実現することはなかった。大統領も元々の計画では腰から上の像となるはずだったが、予算の関係上、それもかなわなかった。しかしながら、そんな中でもボーグラムはあるものを作った。そして、それは現在でも謎に包まれたままとなっている。

彫刻作業は時間がかかるが、効率的だった

Photo Credit: National Parks Service
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イタリア移民のルイジ・デル・ブランコは、石像の中に感情や人となりを表す能力に長けていることから主任彫刻家に選ばれた。顔を彫る作業にはダイナマイトを使い、ハニカムとして知られる加工が用いられた。

作業員らは複数の小さな穴をそれぞれ近くにドリルで開け、後は手作業で小さな欠片を取り除いた後、バンパーやフェーサーと呼ばれるツールを用いて、表面を仕上げていった。山の表面から、およそ45万トンにもおよぶ岩が削り取られた。

制作作業中に起こった問題

Photo Credit: Keystone-France / Contributor
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プロジェクトは滞りなく進んだ、というわけではなかった。元々の計画では、トーマス・ジェファーソンはジョージ・ワシントンの右側に位置する予定だった。制作作業を開始したときも、そのつもりで進めていたのだ。

しかし、花こう岩の問題から、ジェファーソンを作るはずだった場所でダイナマイトを仕掛けることとなり、そのため、ジェファーソンを左側にずらすことになったのだ。今でもジェファーソンのスペースが狭くなっているように感じられるのも、そのためだ。作業員らは、ジェファーソンを彫るスペースがなくなるのではないかとさえ思ったそうだ。

国立公園局が管轄することに

Photo Credit: Education Images/UIG via Getty Images
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1933年、国立公園局はラシュモア山を管轄下にする。これによってプロジェクト全体のインフラと予算が改善された。左から右へと、ワシントン、ジェファーソン、リンカーンの順で、顔が完成していった。

ワシントンは1934年に、ジェファーソンは1936年、リンカーンは1937年にそれぞれ完成し、除幕式が行われた。セオドア・ルーズベルトの顔が最後に完成したのは1939年のことだった。しかしながら、顔を制作している間にも、ガットスン・ボーグラムは秘密裏にある作業を続けていたのだった。

ガットスン・ボーグラムの秘密の計画

Photo Credit: National Parks Service
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予算の制約により、記念碑の元々の計画に多くの変更が余儀なくされたものの、アメリカ政府はガットスン・ボーグラムのある制作を承認している。1938年から1939年にかけて、エイブラハム・リンカーンの頭の後ろにおよそ21メートルにもおよぶトンネルが作られた。ボーグラムは「ラシュモア山の記録堂」入り口を作ったのだった。

この写真はアメリカ政府が保管している重要文書だ。入り口は幅4メートル、高さ6メートルで、両開きのドアを開けると、24メートル×30.5メートルの大きさの部屋へと続くように設計されている。入り口の頭上には、翼幅11.5メートルのワシが飾られている。そして、ワシの上には「アメリカ合衆国の歩み」と「記録堂」と記されている。アメリカ合衆国憲法や独立宣言書などの重要文書は、青銅とガラスでできたキャビネットの中に保管される予定だったのだ。

壮大な計画、予算の関係で中断

Photo Credit: National Parks Service
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「記録堂」はいわゆる栄光のタイムカプセルのようなものを意図していた。ガットスン・ボーグラムは、将来の世代が入り口を見つけ、アメリカ合衆国の歴史やその業績について学ぶことを最終的な目標にしていた。残念ながら、ボーグラムは1941年に、すべての記念碑が完成するよりも前に死去してしまう。そして息子のリンカーンがプロジェクトを完成させたのだった。

ボーグラムの死去、そして第二次世界大戦が始まったことで、記念碑そのもののプロジェクトが中断されることはなかったものの、記録堂は中断されることとなった。その後数十年間、ボーグラムとその業績を称える人達が、ボーグラムが意図していたことを完成させようとするまで、山脇へと繋がったトンネルだけが取り残されたままとなっていた。

スーザン・B・アンソニーを加えようとする動き

Photo Credit: Universal History Archive/UIG via Getty Images
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1937年、スーザン・B・アンソニーを彫像に加えるという新しい法案が議会に提出される。しかしながら、アンソニーを加えることで費用がかかりすぎるのではないかと予算法案がプロジェクトに追加された。

法案には、すべての資金は新しい彫像ではなく、すでに取り組んでいる彫像に使われるべきだと記載されていた。女性参政権の獲得のために活動したアンソニーは、ラシュモア山に加えられるべき顔だったかもしれないが、記念碑が完成した後、この議論が再びなされることはなかった。

1人の死者も出さずに記念碑が完成

Photo Credits: National Parks Service
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1941年10月31日、ラシュモア山国立記念公園のプロジェクトは完成した。プロジェクトにかかった費用は合計でおよそ1億900万円ほどだったが、元々の設計通りよりは随分と抑えられた額となっている。

特筆すべきは、記念碑の制作作業中、作業員が1人も死亡するような事故がなかったということだ。このプロジェクトの規模や危険性を考えても、1人も死者が出なかったのは素晴らしいことだった。1966年、ラシュモア山は国家歴史登録財に登録され、1991年、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は正式にラシュモア山を開所した。その数年後、やっとガットスン・ボーグラムの願いが叶う。

記念堂の一部、完成

Photo Credit: National Parks Service
Photo Credit: National Parks Service

ガットスン・ボーグラムの記念堂計画は1941年に完全に消えたかのように思われたが、実は続いていた。1998年8月8日、トンネルは小さな記念堂として祝われた。確かにボーグラムの計画や希望通りの規模ではなかったものの、それでもボーグラムの計画は実現したのだ。そして、記念堂の入り口の内側に記録を保管する場所が設けられた。花こう岩の冠石で覆われたチタンの金庫室の内側に、チーク材で作られた箱が置かれている。

さらに、花こう岩の冠石にはボーグラムの言葉が刻まれている。「…天国に限りなく近い場所に刻む。我々の大統領の言葉、顔を。後世の人々に先人らがどのような人間だったのかを示すために。そして、こうした記録が雨と風のみによって消え去るまで、ここに残るよう祈りを捧げる。」

ガットスン・ボーグラム、記録を残す

Photo Credit: National Parks Service
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金庫室と箱の中には、16枚の磁器パネルがある。このパネルにはラシュモア山の完成までの経緯や誰が制作したのか、そしてどうしてこの4人の大統領が彫られたのかということが記されている。さらに、パネルにはアメリカ合衆国の簡単な歴史が記されており、建国の経緯が誰にでも分かるようになっている。また、ここには独立宣言や憲法も彫られている。

今日、記念堂の入り口はおよそ550キログラムもの花こう岩の平板で密閉され、誰も立ち入ることができないようになっている。これは、この記録堂が現代の我々にあてたものではなく、何千年後の人々のために作られたものだからだ。

ラシュモア山の維持管理

Photo Credit: Universal Images Group via Getty Images
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ラシュモア山を維持管理するための作業はたくさんある。観光客が足を踏み入れる地面だけでなく、山自体に手を入れてやらなければならないのだ。これは他の種類の岩よりも割れやすい花こう岩に彫ったことによる。

1989年、国立公園局ならびにラシュモア山協会は、記念碑の構造的強度と将来的に割れやすい箇所の調査に乗り出した。さらにこの調査で、ボーグラムの作業中に生じたひび割れを補修したシーリング材(リンシード・オイルと鉛白、花こう岩粉末で作られている)の検査が行われた。結果、水の侵入を防ぐことができていないことが明らかになった。

新しいシーリング材とモニタリングシステムの設置

Photo Credit: National Parks Association
Photo Credit: National Parks Association

記念碑を完璧なままに維持するため、国立公園のスタッフは古くなったシーリング材を剝がして、現代のシーリング材として使われているシリコンを使って密閉することにした。これで雨だけでなく、ブラックヒルズで起こる大きな温度変化にも耐えられるようになった。

そして、シリコンの上に花こう岩粉末をかけることによってシリコンが目立たないようにした。さらに、わずか0.01ミリメートル未満の動きも検知するように電気モニタリングシステムを設置した。また、これは花こう岩の温度も記録できた。これらの措置はすべて、将来的な予期せぬ問題を防ぐためだ。

記念碑自体の清掃は滅多に行われない

Photo Credit: Keystone-France/Gamma-Keystone via Getty Images
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当然のことながら、記念碑自体の清掃は前出の維持管理作業よりも頻繁には行われない。これは主に予算の関係によるもので、必要最小限で行われるか、どうしても必要となった状況でのみ行われている。

しかしながら、2005年、ケルヒャー社(清掃システム・機器を販売する会社)が自社の高圧洗浄機を使い、90度の温水でもって記念碑を無償で清掃した。数週間にもわたったこの作業だが、1927年に記念碑が公開され始めて以来、最も綺麗な状態になったという。

現在のラシュモア山

Photo Credit: Richard Clapp/Getty Images
Photo Credit: Richard Clapp/Getty Images

1980年代後半、記念碑を訪れる観光客が可能な限り快適に観光できるように、プロジェクトが始まった。このプロジェクトのおかげで、記念碑の周りの訪問者用施設、歩道などインフラ整備が行われた。

この時、ラシュモア山広場やリンカーン・ボーグラム博物館、大統領散歩コースなども整備された。大統領散歩コースでは、観光客は記念碑の下を歩くことができる。そして、こうした整備の甲斐もあって、ラシュモア山はサウスダコタ州でも最も有名かつ大きな観光名所となった。

ラシュモア山でできるアクティビティ

Photo Credit: Prisma Bildagentur/UIG via Getty Images
Photo Credit: Prisma Bildagentur/UIG via Getty Images

彫像を見るだけでも十分感動的だが、記念碑を見に行こうと思うなら、他にも楽しめることはある。リンカーン・ボーグラム案内所では、展示や短編の映像があり、彫像の制作方法やその論理を学ぶことができる。

大統領散歩コースは全長およそ1キロメートルあり、彫像を間近で見ることができる。さらに年齢無制限のジュニアレンジャー(公園管理者)・プログラムも用意されている。さらにアメリカ先住民らの歴史などについて公園管理者らによる講演もあれば、夜にはライトアップも行われる。もっと記念碑について詳しく知りたいという人には、ガイドなしで音声ガイダンスを聴きながらまわるツアーも用意されている。

アメリカの記念碑は感動的なだけでなく、強力なメッセージを送るものだ。1885年、フランスからニューヨークに贈られた象徴的な自由の女神像は、はじめはボストンに設置された。さて、次は自由の女神像にまつわる話をご紹介しよう。

正式名称を知っているだろうか?

Gary Hershorn/Getty Images
Gary Hershorn/Getty Images

自由の女神像はアメリカで作られたものではない。元々はフランスからアメリカに贈られたものだが、以降はアメリカの観光や文化の定番となっている。1885年、20万人もの人々が見守る中、フランスの輸送船イゼール号がニューヨークに運び込んだ。さて、この女神像の顔は誰をモデルにしたものなのだろうか?知らなかった事実をひも解いていこう。

我々はこの歴史的建造物を「自由の女神(像)」と呼ぶことに慣れてしまっているが、正式な名称は別にある。制作者である彫刻家フレデリック・オーギュスト・バルトルディによると、正式名称は「世界を照らす自由」だ。

正式名称は長く、通称「自由の女神」の方が確かに言いやすい。だが今後、誰かがこの像を「自由の女神」と呼ぶのと聞いたなら、正式名称を教えてあげると良いだろう。

てっぺんまで登れた

Drew Angerer/Getty Images
Drew Angerer/Getty Images

1916年まで、勇気のある人は自由の女神が手にするトーチまで登ることができたが、これは「ブラック・トム」事件以降変わった。ブラック・トム島で爆発が起こったのだ。

地電波の規模はマグニチュード5.5を計測した。さらに、爆発による金属片は長距離まではじけ飛び、40キロも離れた地点の窓が割れた。この爆発による損傷のため、トーチは閉鎖されることとなったのだ。

エジプトでの出会い

Ivan Dmitri/Michael Ochs Archives/Getty Images
Ivan Dmitri/Michael Ochs Archives/Getty Images

自由の女神像を制作したバルトルディは、作品が海を渡ってアメリカにいくことになろうとは制作当初は思いもしなかったようだ。若い頃にエジプトを訪れ、当時進行中だった地中海と紅海を結ぶ水路を作るプロジェクトに夢中になった。

バルトルディはエジプトのリーダーであるケディブと出会い、ピラミッドのような注目を集める作品を作ろうと持ちかけた。結局、それが実現することはなかったが、バルトルディはそれをアメリカで実現することになる。

軍人家族の家

DeAgostini/Getty Images
DeAgostini/Getty Images

星型の台座は、単に台として使われているだけではなかった。1818年から1930年代半ばまでは、軍人家族の住居にもなっていた。家族にはたいてい小さな子ども達もいた。

元住民の1人でもあるジェームズ・ヒルは当時を振り返り、かつて妹と、自由の女神像の王冠のあたりから野球のボールを落として、どのくらい跳ね返ってくるのかを見ていたと語っている。

女神のモデルは母

Bettmann/Getty Images
Bettmann/Getty Images

多くの偉大な芸術作品は、たいていの場合、制作者の人生において影響を与えた女性がモデルとなっている。これまでにも、配偶者や遠距離の恋人を思い描いて作られた芸術作品も多い。そして、自由の女神も例外ではない。

バルトルディにインスピレーションを与えたのは、母シャーロット・バルトルディだった。バルトルディは母親をモデルにしたが、妻のことも忘れていたわけではなかった。妻にも協力を仰ぎ、ポーズをとってもらっている。

像はフィラデルフィアに置かれていた

Gary Hershorn/Getty Images
Gary Hershorn/Getty Images

像の建設が完了する前、資金を募るために像はフィラデルフィアに置かれた。像を訪れた人々は、トーチの上まで登り、眺めを楽しんだ。まもなく資金は集まり、像の頭部が完成した。

フィラデルフィアに置かれている間、女神像は多くの注目を集めた。バルトルディは人々が像を楽しみ、愛されていると感じたため、アメリカの地に女神像を置くことについて考え始めた。

ボストン、像を引き取ろうと試みる

Spencer Platt/Getty Images
Spencer Platt/Getty Images

フィラデルフィアから再びパリに移された像には、まだまだ完成させなければならない作業が残っていた。ニューヨークでの資金調達のためのお披露目はこの時点で行われなかったが、ボストンでは実現することができた。

ニューヨークタイムズ誌は「(ボストンはニューヨークに代わって)自由の女神像を(資金調達のため)引き受け、完成させるための費用を集めた。ボストンはおそらく自由の女神像の価値を過大評価しているのではなかろうか。この像は見たことがない我々にとっても大切なものた。今後は3流の街が割り込んで、我々のところに届く予定だったものを奪うことはできない。」と報じている。ボストンはもう少し交渉してみるべきだったのかもしれない。

灯台としての機能をもたせる…?

Alex Trautwig/Getty Images
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ユリシーズ・グラントが自由の女神像をリバティ島に設置してもよいと許可した後、灯台として使うことを提案したと言われている。こうした目的をもたせることで、政府予算が使えるようにという配慮からだった。

エンジニアらは灯台としての役割を果たすのに十分の照明装置を入れることができなかったため、この計画は台無しになった。バルトルディはこれに腹を立てたが、後々、リバティ島の位置自体が内陸部にあるため、いずれにせよ、像を灯台として機能させることはできないことが分かった。

頭部にある7つのスパイクとは

Fox Photos/Getty Images
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現在の自由の女神像にある7つの尖った部分(スパイク)は、元々は頭部につけるつもりではなかった。そして、スパイクがついている王冠と思われているものは、実は王冠ではなく、女神の後光だという。7本のスパイクは、世界の7つの海と7つの大陸を表しているが、1938年、錆びついた部分を修復するために一時的に取り外したことがあるそうだ。

金の像?

Kena Betancur/Getty Images
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バルトルディはこの傑作について、さらに計画を立てていた。実は、この自由の女神像を金で覆い、暗がりでも見えるようにしようと考えていた。そして、この計画を聞いただけでもお分かりのように、費用がかかるものだった。

像を建設するだけでも資金の調達が難しかったため、これを金で覆うという計画はすぐに断念せざるを得なかった。バルトルディは像全体を覆えるほどの金を集めることはできなかっただろう。

トーマス・エジソン、音声を流そうとしていた

Bettmann/Getty Images
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当時はトーマス・エジソンの才能を世界中の人々が賛美していた時代だった。エジソンは命を持たない像に命を吹き込もうと計画していた。世界に発明した蓄音機を発表した後、新聞社に対し、もっと大きな計画が進行中だと明かしている。

エジソンは像の内部に「巨大なディスク」を作ろうと計画していたようだ。もしこれが実現していたら、像から流れた音声は湾を越えて、マンハッタンの北部まで届いていたことだろう。

女性の自由はどこに?

Bettman/Getty Images
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女性の権利団体は自由の女神像の除幕式を支持しなかった。というのも、女性には投票権がないにもかかわらず、女性の像が自由の象徴として立つことに矛盾を感じていたからだった。

除幕式という大きなイベントに参加した女性は、バルトルディの妻とスエズ運河を設計したエンジニアの娘だけだった。

セントラル・パークだったら…

Ivan Dmitri/Michael Ochs Archives/Getty Images
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リバティ島に設置することが決まる前、バルトルディは2つの場所を考えていた。ニューヨークに到着したとき、ブルックリンのプロスペクト・パークに像を設置するのもいいかもしれないと考えた。当時、セントラル・パークもできたばかりだったので、当然候補地に挙がった。

もしバルトルディがセントラル・パークに固執していたら、ニューヨークを代表する高層ビルからなる集合住宅は、自由の女神像の足元までの高さにしかならなかっただろう。

たくさんの通称がある

Ivan Dmitri/Michael Ochs Archives/Getty Images
Ivan Dmitri/Michael Ochs Archives/Getty Images

自由の女神像の正式名称については前出の通りだが、「自由の女神像」というのが通称でしかないということを知っていただろうか?実は、通称もこれ1つだけではない。

他にも、グランド・デイム(貴婦人という意味のフランス語)、緑の女神、レディー・ハイアー・アップ(高いところにいる女性)、レディー・オブ・ザ・ハーバー(港の女性)、レディー・オン・ア・ペデスタル(台座の女性)、トーチを持つ女性、亡命者の母、自由の母、セント・リバティー、アメリカの自由、アメリカの偉大な女性、自由おばさん、バルトルディの娘、巨大な女神、アメリカ独立の精神などがある。

これ以降、伝統となったこと

Bettman/Getty Images
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落成式の前、マンハッタンで大規模なパレードを行って、自由の女神像の就任式とした。ニューヨーク・シティの新しい象徴となる像を祝おうと、多くの人々が通りを埋め尽くした。

証券取引所では、興奮したデイトレーダーが建物の窓から裁断されたティッカー・テープを巻いた。以降、大きなイベントでティッカー・テープ(紙吹雪)を投げることがニューヨークの伝統となっている。

元々は緑ではなかった…

Bettmann/Getty Images
Bettmann/Getty Images

この偉大な作品は、もともと緑ではなかった。信じられないかもしれないが、自由の女神像は元々は光沢のない銅褐色だったのだ。

年数がたつにつれ、銅が酸化して変色していった。銅褐色だった像は、現在のような緑っぽい色へと変わり、これ以上の劣化を防いでいる。1906年までには全体が緑になった。

自由のしるし

Gary Hershorn/Getty Images
Gary Hershorn/Getty Images

像の多くの特徴に気づかない人は多いが、自由の母の足はどうなっているのか、ご存知だろうか。

ほとんど見ることができないが、女神像の足元には、壊れた足かせと鎖がある。右足はわずかに上がっており、奴隷制や抑圧を過去のものとして、前へ進むということを象徴している。

雷がお好き?

Marei McDonald/Pinterest
Marei McDonald/Pinterest

女神像に何度落雷があったか、当てることができるだろうか。おそらく、正解は出ないだろう。

報告によると、自由の女神像は年間600ボルトの雷に襲われている。この写真はカメラマンが何年もかけてやっと、2010年にその瞬間を捉えたものだ。こんな写真が撮れたなんて、何年も頑張った甲斐があるというものだ。

膨大な数の箱!

Yvonne Hemsey/Getty Images
Yvonne Hemsey/Getty Images

自由の女神像はアメリカで制作されたわけでもないのに、どうやってアメリカに到着したのだろうか?実際には、女神像は分解された状態で運ばれてきたのだ。そして、そのために作業員らにも多くの作業が残っていた。

女神像は350個のパーツに分解されてフランスから運ばれた。それは214個もの箱に梱包され、船に載せられた。梱包を開くだけでも大変な作業だったことが分かる。

姉妹像

Underwood Archives/Getty Images
Underwood Archives/Getty Images

エジプトに像を作るという考えも立ち消えたままではなかった。最初の水路工事が終わった後、スエズ運河の入り口に自由の女神像とはまったく異なる像「アジアへ光を運ぶエジプト」を建てるという話もあった。

ベールに覆われ、ランタンを手にしたエジプト農民の女性像はどうかという議論もあったものの、それにかかる費用のため、この構想は再び立ち消えている。