ドリー・パートンの波乱万丈の人生を一挙大公開

ドリー・パートンに関しては、みなさん知らないことも多いのではないでしょうか?結婚してどれくらいになるのか、ドリーウッドの乗物のいくつに乗ったことがあるのかなど。現在の彼女の政治的スタンスから謙虚な生い立ちまで、あなたが知らなかったかもしれないドリー・パートンの秘密を一挙公開。2016年の大統領選挙の際のコメントには驚かされるかもしれません。

生まれ

テネシー州のセビア郡で1946年1月19日に誕生したドリー・レベッカ・パートン。12人いる子どもの内の4番目として生まれます。父親は工事現場の作業員で、母親は専業主婦で子育てに没頭していました。パートンは自分の家族を「かなりの貧乏」と説明しており、グレート・スモーキー・マウンテンズの谷にあるワンルームのキャビンの中で家族と暮らしていたそうです。

家族は大きなペンテコステ派地域に暮らしていたため、キリスト教徒として生まれ育ちました。6歳の時、教会でパフォーマンスを行うようになり、8歳の時に叔父さんからプレゼントされ初めてのギターを手にします。

子どもの頃のパフォーマンス

パートンは、若いうちから歌手としてのキャリアをスタートさせています。東部テネシー州エリアの地元のテレビ番組やラジオ番組で歌声を披露していました。10歳の時には『WBIR-TV』や『WIVK』などのラジオ番組やテネシー州のノックスビルにて『WBIR-TV and WIVK』に出演しています。

13歳の時にかなりの運に恵まれたパートン。なんと、グランド・オール・オプリホテルでパフォーマンスをして、ジョニー・キャッシュに出会います。もちろんキャッシュからはありがたいお言葉を頂戴して、夢をあきらめずに本能に従うようアドバイスを受けます。

高校卒業後のキャリア

1964年、セビア・ハイ・スクールを卒業したドリー・パートン。すぐにナッシュビルに引っ越しますが、直後から歌手として成功したわけではありません。それでは、何で有名になったのでしょうか。ソングライターとしてです。おじさんのビル・オーウェンズと共に曲を書いて、2つのトップテンのヒットを生み出しています。

この2つのヒットは、1966年のビリー・フィリップスの『Put It Off Until Tomorrow』、1967年のスキータ・デイヴィスの『Fuel the Flame』。これらのアーティストののほかに、ハンク・ウィリアムズ・ジュニアとキティ・ウェルズにも楽曲を提供しています。ただ、パートンは自分で歌うための曲を書きたいと考えていました。

レコード契約とバブルガム・ポップ

19歳だった1965年、モニュメント・レコードと契約。元々は、60年代後半、70年代前半にティーンエージャーを対象にして作られたアップビートの曲が特徴のバブルガム・ポップを歌う予定でした。ただ、このジャンルはあまり長くは続かない一時の流行りとして終わります。

この時代、パートンはシングルをリリースしていますが、どれもビルボード・ホット・100にランクインはしていません。パートンはビル・フィリップス1966年のヒットでハモリに挑戦。これがカントリージャンルにシフトするきっかけになります。『Hello, I’m Dolly』と題された初のフルアルバムを製作し、そのうちの2曲が1967年にカントリーチャートで24位と17位にランクインしました。

動き出したキャリア

カントリーアルバムが売れると、パートンは『ザ・ポーター・ワゴナー・ショー』への出演および彼のロードショーへの参加の依頼を受けました。視聴者のウケがイマイチだった、ノーマ・ジーンを席を埋める形での番組出演です。視聴者たちからは、頻繁にノーマ・ジーンに対する不満が寄せられていました。

だからといって怖気づくことがなかったパートンは、ワゴナーの力を借りつつ少しずつ視聴者たちに受け入れられていきます。パートンとワゴナーは、共にたくさんのヒットを生み出して、6年間連続シングルトップテン入りを果たしました。この番組に7年出演したパートンは、1974年に番組を去っています。

ソロキャリアで苦戦

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ワゴナーと共に仕事をしている間に、RCAレコードとの契約を交わしたパートン。同レーベルからの初のソロシングルは、『Just Because I’m a Woman』でした。1968年の夏にリリースされチャートの17位にランクインしたため、そこそこの成功だと考えられています。

パートンは60年代後半にかけてシングルをリリースし続けていましたが、ワゴナーと共にリリースした曲ほど高い位置にランクインすることはありませんでした。その後ワゴナーに説得されて、元々ジミー・ロジャーズによってレコーディングされた『Mule Skinner Blues』をパートン版でレコーディング。ここから彼女のソロキャリアが動き始めます。

成功!

『Mule Skinner Blues』をレコーディングすると、同曲はチャートの第3位にランクイン。その後発表した『Joshua』は、ナンバーワンシングルに輝きました。それからの2年、彼女のシングルはソロアーティストとしてもワグナーとのデュエットとしてもチャートトップにランクインするようになります。彼女の代表作『Coat of Many Colors』は1971年に第4位にランクインしました。ヒットした他のシングルには、『Touch Your Woman』、『My Tennessee Mountain Home』、『Travelin’ Man』などがあります。

これらの曲は、すべて1972年、1973年に発売。1973年の後期、最大のヒットのひとつである『Jolene』をリリースします。この曲はカントリー部門でトップチャートに輝いただけでなく、イギリスでもチャート入りしました。

ポップへの移行

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1976年から1977年にかけて、パートンはカントリーからポップへ移行していきます。このころから、25年間に渡ってマネージャーを務めることになるサンディー・ガリンと仕事をし始めるようになりました。1976年のアルバム『All I Can Do』ワゴナーと共にプロデュースしていますが、もっと大衆向けのポップ好きを念頭に置いた作品になっています。

自分だけでプロデュースした初期のアルバムは、1977年に発売した『New Harvest…First Gathering』とヒットをカバーした『Higher and Higher』などです。アルバムは成功したとは言えないものの、ここで諦めないのがパートン。『Here You Come Again』をリリースすると、カントリー部門でチャートトップになっただけでなく、ポップでも20位にランクインしています。

ソングライティングのキャリア

パートンが作詞作曲した『I Will Always Love You』は、『ボディガード』(歌:ホイットニー・ヒューストン)、『Unchained Melody: The Early Years』に収録されているリアン・ライムス版、『Vote for Love』に収録されているケニー・ロジャース版など、様々なところで耳にすることができます。

1980年と2005年には、『9 to 5』と『Travelin’ Thru』でアカデミー歌曲賞にノミネートもされているパートン。『Travelin’ Thru』は、2005年に放送映画批評家協会賞とゴールデングローブ賞 主題歌賞にもノミネートされています。

ビジネスベンチャー

様々な分野に取り込むことに関して、かなり頭が回るパートン。東部テネシー州、特にピジョン・フォージのビジネスには自分の稼ぎの多くを投資しています。パートンが共同経営者であるドリーウッド・カンパニーによって運営されている、ドリーウッドという遊園地も存在。

同社によって運営されている企業の中には、ドリーウッドズ・スプラッシュ・カンパニー、ドリー・パートンズ・ディクシー・スタンピード、ディナーショーシアターなどがあります。ドリー・パートンズ・スタンピードはディナショーシアターで、ピジョン・フォージ、ブランソン、ミズーリ、マートルビーチ、サウスカロライナに所在します。ドリーウッド・カンパニーは、ピジョン・フォージにあるランバージャック・フュード・ディナー・ショーを買収し、この場所は改装して2016年にオープンしています。

演技

音楽だけならず、ファンはパートンの演技を楽しむこともできます。本当に才能に溢れていますよね。『ポーター・ワゴナー・ショー』で演技のキャリアをスタートさせたパートンですが、その後も舞台にたびたび立っています。1970年には自身の冠番組『ドリー!』が放送を開始し、1980年代中期にも冠番組が開始しています。

パートンは、男尊女卑な上司に飽き飽きした同僚たちと力を合わせるドラリー・ローズ役で映画『9時から5時まで』に出演。2作目の『テキサス1の赤いバラ』は、1982年に公開されたミュージカルです。どちらの映画も批評家から高い評価を得て、世界的なヒットしました。

結婚

ドリー・パートンは、カール・トーマス・ディーンと結婚しています。夫婦は、ジョージアナ州のリングゴールドにて1966年5月30日に挙式。パートンは仕事では夫の姓を名乗っていないものの、彼女の正式な名前は「ドリー・パートン・ディーン」です。カールはアスファルトの舗装ビジネスをナッシュビルで営んでおり、人前に出ることを避けています。パートンのイベントに訪れることもほぼなく、パフォーマンスを見たのはたった1度きりだそうです。

パートンによればカールはロマンチックで、サプライズをしてくれることもあるんだとか…。か、かわいい!夫婦の間に子どもはいませんが、パートンの兄弟の子供の面倒を見ているようです。2016年、パートンは夫と結婚50周年を祝って再び愛を誓いあっています。芸能界での愛も続く人は続くんです。

整形

パートンは、キャリアの中で複数の整形を行っています。インタビューの中で、次のように話しています。「いつも私が言っている通りよ。私はフェイクに見えるかもしれないけど、私は本物。大事なのはそこでしょ」。メイク時間はたったの15分で、どこに行ってもすべて自分で行っているそうです。

「私は自分という人間に結構満足してるの。もし他の人がそれに不満なら、まぁ、勝手にすれば?」インタビューの中で整形について聞かれた時にはこう答えています。「こんなに安っぽい感じに見せるにもたくさんのお金がかかるのよ」。ただ、パートンは女性の見た目を極端に気にするべきではないとも信じています。

そっくりさんコンテスト

ドリー・パートンそっくりさんコンテストで、ドリー・パートン本人に勝る人はいませんよね?ところがどっこい、本物に勝利した人がいるんです。パートン本人がそっくりさんにコンテストで敗北、という事件が一度発生しました。問題のサンタ・モニカ・ブールバードでのコンテストでは、誰もがかなり大げさなドリー・パートンの格好で登場。

「ステージに出ていったんだけど…勝ったのは私じゃないの!惜しくもなかったわ」。自分がドリー・パートンなのに、コンテストに負けるなんてあり得ないですよね…?優勝者は男性だったそうで、ドラァグショーだったのでしょうか…?

遊園地の乗物

さて、パートンはいくつのドリーウッドの乗物に乗ったことがあるのでしょうか?パークが閉園した後に、列を待たずに好きな乗り物を楽しむパートンの姿をつい想像してしまいますよね。はい、そんなのただの妄想です。実は、パートン自身は乗物に乗ったことがありません。その理由とは?

パートンは乗物酔いをしてしまう質なんです。「父親が良く言ってたの。『俺は船乗りにはなれない。炭鉱夫にもなれない。操縦士にもなれない』。私も同じ。乗り物酔いしちゃうのよ。遊園地の乗物なんか乗れないわ。スクールバスで気持ち悪くなってたんだから」

秘密の入れ墨

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Taylor Hill/Getty Images
Taylor Hill/Getty Images

パートンの入れ墨 (服で見えない場所) のうわさは、長年言われ続けています。ローカットのブラウスやノースリーブのワンピースを身につけることはほぼありません。ただ、屈みすぎたり、少しシアーな素材の服を着用したりした際に、カラフルな何かがあるように見えるんです。これは長い間ただの噂だと信じられていました。

ただ、今では本人が入れ墨の存在を認めています。『アブソリュートリー・ファビュラス』のロザンヌ・バーとジェニファー・ソーンダースは、レストランでそれを目撃。この事件後にクレイグ・ファーガソンのトーク番組に出演したロザンヌは次のように話しています。「これ言わない方がいいと思うんだけど…ドリー・パートンってタトゥーで覆われてるの…本人が見せてくれたのよ。身体中にカッコいいタトゥーがあるの。黒や青の線はなくて、パステルのきれいなリボンがそこら中にある感じ」。どうやら、入れ墨は美容整形の痕を隠すために入れているようです。

マイリー・サイラスの名付け親

ドリー・パートンは、ポップ&カントリー歌手のマイリー・サイラスの名付け親でもあります。2人は、一緒に『Jolene』を歌ったことも。それってすごすぎですよね。2人とも素敵な歌声の持ち主で、2人の力が合わさってまた別の良さが出てきています。2014年、メディアに映るマイリーについて、パートンは意見を求められました。

子どもの頃からマイリーのことを愛している、と答えています。「マイリーはマイリーらしくいたいだけなのに誰にもそれを許してもらえず、極端な方法で出ているだけ」、というのがパートンの見解。「たくさんの才能がある彼女が良い選択をしてくれるよう願っている」、とコメントを締めくくっています。

支援的な名付け親

2014年にマイリーの公然での下品なふるまいに関して尋ねられた際 (今に比べてもっと「ワイルド」だったとされる時期)、パートンは名付け親としてマイリーの行動を擁護しました。

『タイム』誌に次のように語ったパートン。「マイリーの賢さと才能を知らなかったとしたら、心配したかもしれないわ。でも、あの子が成長するのを見て来たから心配はしてないの。自分のしていることはわかっているはずよ。『シークレット・アイドル ハンナ・モンタナ』のことは本人も誇りに思っているけど、周りの人達はそればっかりだからね。あの子は賢いの。大げさにするつもりはないわ。でも、あの子の選択は尊重してる。私自身自分のしたいようにしたんだから、あの子が好き勝手出来ない理由はないでしょ」

マイリーの擁護

マイリーがディズニーチャンネルを去った後のコンサートにおけるわいせつなステージパフォーマンスでかなりの批判を受けた際、パートンは自分のキャリアの始まりをマイリーに重ねて擁護しています。

『サンデー・タイムズ』に対して、2016年のマイリーの問題に理解を示し、次のように語っています。「私も理解できるわ。だって当時、自分のやりたいことを自分のやりたいようにやって、セクシーな服を着て胸元を見せて、結構非難されたもの。たくさんの人が私は間違いを冒してるって思ってて、私のことをクズって思ってたみたい。確かにそうだったんだけど。だから私自身経験があるんだけど、アドバイスするつもりはないわ。誰だって自分のルールに従ってこういう問題を乗り越えていかないといけないでしょ」

売春婦

さて、あの印象的なルックのインスピレーションは一体どこから得たんだろうと思ったことはありませんか?彼女のような着こなしでメイクをするミュージシャンは、他になかなかいませんよね。どうやら、パートンのあのルックは、売春婦からインスパイアを受けているそうです。大きなブロンドの髪、赤いリップ、なまめかしい体型は、すべてパートンが成長する中で見て来た売春婦から来ています。

「とある女性がいたの。名前は伏せておくけどね。この人がきれいでさ。私、盛った金髪に赤いリップ、チーク、ハイヒールの女性なんか見たことなくて。思ったのよ。『私もこんな風になりたい』って」(『ABCニュース』のパートンのインタビュー)

クローゼットの中のドリー

子ども時代からの友達のジュディー・オーグルとの親密な関係を理由に、「パートンが実はゲイである」といううわさがされていた時期がありました。2人の関係が実際どれほど「親密」なのか、ファンたちは勝手に色々推測していたんです。

パートンのジュディーとの関係がオプラ・ウィンフリーとガイル・キングの関係に例えられたとき、パートンは噂に関して『ナイトライン』に言及しています。「ガイルは彼女の友達。ジュディーは私の友達。噂をしている人は、友達として誰かとそこまで親密になることができないと思ってるのね。ジュディーと私は3、4年の時からの親友なの…今もいい友人関係を保つことができていて、彼女のことはとても愛してるわ。でも、ロマンチックな関係ではないの」

自由を求めて

『ザ・ポーター・ワゴナー・ショー』でキャリアをスタートさせたパートンでしたが、パートンがヒットをたたき出したあと、2人は仲たがいをしています。7年間に渡ってワゴナーと活動し番組に出演して、2作のアルバムまでリリース。しかし、1974年2月19日、パートンはパートナーシップの解消を発表しました。

パートナーシップを結んでいる間も、常に2人の歌手の関係がうまくいっていたわけではないことは明らかです。パートンは『CMT』に次のように語っています。「私は自由になろうとしてたの。だってポーターの番組には5年間出演するって話だったから。私7年も出演したのよ。たくさんケンカした。私達とっても似てるの。どっちも頑固なのよ」

わだかまり

パートンとワゴナーは頻繁に対立するようになっていたため、別々の道を歩むときが来ていたのです。「私たちは、自分達にとって何が最高かわかってたの。まぁ、彼は私にとって何が最高かもわかってるって思い込んでたのよね。私といえば、当時は自分にとって何がいいかは自分が一番わかってるって信じてたの。言うまでもなく、たくさんもめたわ。それに、彼は私が去る理由を聞き入れてくれなかったの」

その後、契約違反でパートンを訴えたワゴナー。ここから2人の不仲が始まります。彼の番組を去ってから長い間、2人の関係は冷え切っていました。番組を去る前、パートンはワゴナーのために書いた曲を彼に個人的に聞かせています。

ワゴナーへの思いやり

パートンのヒット作のひとつ『I Will Always Love You』に関して『CMT』に次のように話しています。「歌の中でこんな内容の歌詞があるのよ。『私が去るからといって、もう愛していないという意味ではないの。あなたには感謝してる。うまくいってくれるといいと思ってる。やってくれたことすべてに感謝しているけど、私はもう行くわ』」

「この歌を次の日彼のところに持っていったの。それから言ったのよ。『座って、ポーター。歌を書いたの。聞いて頂戴』って。それから私、歌ったわ。彼は泣いてた。『今まで聞いた中で一番美しい歌だ。僕にそのレコードをプロデュースさせてくれるなら、もう行っていいよ』って言ったの。それで言った通りポーターがプロデュースしたわ。あとはみんな知っての通りよ」

傷を癒して

長い間不仲のままで、一人でも大成功を収めたパートンですが、ワゴナーの死に際には彼の元を訪れています。2007年、80歳となったポーター・ワゴナーは、肺がんで生涯を終えようとしていました。パートンは、自分が有名となるきっかけを作ってくれた人物との関係を修復しないまま彼を逝かせることは出来ないと思ったのです。

パートンは、『ニュース・センチネル』に次のように話しています。「とってもとっても辛かったわ。彼の手を握って、私たち一緒に祈りをかわしたの…ポーターの魂はすでに神の元に向ってた。残されたのは、殻だけ」。パートンは、ワゴナーが亡くなるその瞬間を見守ったのです。

チャートトップの成功

パートンが作った曲は、本人が歌ってもヒットしましたが、1992年の映画『ボディーガード』のホイットニー・ヒューストン版が公開されて爆発的にヒットします。もちろんこの曲はヒューストンの葬式でも流されました。パートンは『ナイトライン』に次のように話しています。「彼女のお葬式であの曲がかかったら、棺に入った彼女が持ち上げられて、私は心臓をナイフで刺されたような気持だった。ただただ圧倒されてたの」

1982年に再レコーディングされたの後、パートンは同じ曲で2度チャートナンバーワンを達成した初の歌手となりました。ちなみに、ヒューストン版の曲は14週間連続でビルボード・ホット・100入り。『I Will Always Love You』は、音楽史上女性歌手の最も売れたシングルの記録を保持しています。

仲たがいの始まり?

ホイットニー・ヒューストン版が発売されてから『I Will Always Love You』が爆発的にヒットしたため、多くの人はこれでパートンが気分を害したと勝手に推測していました。90年代初期のタブロイド紙は、ヒューストンとパートンが仲たがいをしたといううわさを広めています。

ただ、実際は事実とかなり異なります。どちらの歌手もお互いのことをかなり高く評価しているんです。1993年、ヒューストンは『ローリングストーンズ』誌に対して、パートンに直接お礼を言う機会があったと話しています。「ドリー・パートンに電話で話したのよ。そしたら、こういわれたの。『 (パートンのアクセントを真似て) ホイットニー、私、あなたに言いたいことがあるの。私の歌を歌ってくれて本当に光栄だって思ってるのよ。どう伝えたらいいかわからないくらい』って。だから、私言ったの。『やだ、ドリー。あなたがあの美しい曲を書いたんじゃない』って。そしたらドリーが言うのよ。『そうだけど、私自身ではそれほどヒットしなかったから。ホイットニーが息を吹きかけたからこそ、ヒットしたのよ』って」

イマジネーション・ライブラリー

ドリー・パートンが『ドリー・パートンズ・イマジネーション・ライブラリー』というプログラムを運営していることはご存知ですか?ドリーウッド基金の活動の一部で、乳児から幼稚園までの年齢の登録された子供たちに毎月本を送っています。この活動にはおよそ1,600のコミュニティーが参加しており、オーストラリア、英国、カナダ、アメリカの850,000名の子供たちが毎月本を受け取っています。

子どもたちに生まれた時から本や読書への興味をもたせるという意味で、かなり役立つプログラムですよね。ご自身のお住まいの地域がエリアに含まれているかを確認して、お子さん、甥、姪、いとこ、この年齢層に当てはまる子どもを登録してあげてみてはいかがでしょうか?

イマジネーション・ライブラリーのインスピレーション

このプログラムをスタートさせるにあたってインスパイアとなったのは、とても特別な経験です。2015年、『ペイパー』のインタビューでパートンは次のように話しています。「このきかっけは私の父親なの。間違いなく、父親は私が知る中で最も賢い人。でも、彼は文字を読むことが得意じゃなかったの。私たち家族に素晴らしい生活を与えてくれたけど、もし字が読めたらもっとすごいことができてたかもしれないでしょ。イマジネーション・ライブラリは、そんな父親への敬意を示す方法のひとつなの…」

「父親が亡くなる少し前、私がやってきたことの中でも、イマジネーション・ライブラリーのことを一番誇らしく思ってるって言ってくれたのよ。あの瞬間のことは忘れない。だから、ブック・レディって呼ばれる度に、自分の父親のことを思い出すの」

ドリーウッド基金

特にドリーウッド基金の活動の一部として、自分のお金を良い行いのために活用しているパートン。この基金のお陰で、経済的に落ち込んでいた近辺のエリアに税収入と仕事をもたらし、活性化させています。さらに、HIV/AIDSのチャリティーやアメリカ赤十字のために募金活動も行っています。

2006年、パートンはセバービルに建設予定だった病院のために500,000ドルを寄付。さらに、2009年にはテネシー大学の入学式にて、学生たちに「夢を諦めない」というスピーチを行っています。もはや、やったことのないことの方が多いのでは…と考えてしまいますよね?

心の広いドリー・パートン

記事を読めばお分かりいただけるかとは思いますが、パートンは非常に慎ましい家庭の出身です。パートンの出産の際には、親が穀物で医者に支払いをしたという逸話さえあります。これなら、パートンが自分の収入を世界と共有したい、と考えることにも納得がいきますよね。ただ、『ペーパー』誌には、セレブだからといって活動家や慈善家になる必要はないと話しています。

「私は絶対に人に何かするように言わないの。私ができることは、自分のために声を上げることだけ。私自身は、いつも恩返しをしないとって感じてるの。私にとって、これには色んな意味があるのよ…。しかも、かなり自分自身を投資することになるでしょ。でも私は自分に期待されていることは気にしてないの。それって自分のテリトリーだし、そのために自分を変えるつもりはないわ」

みんなの空間

パートンは、毎年ドリーウッド・パークで「ゲイ・デー」を開催します。この場所は、LGBTコミュニティーにもカトリックにも人気の観光地です。これは相反する組み合わせに思われますが、パートン自身は誰でも大歓迎という姿勢です。

2014年、パートンは『ハリウッド・リポーター』に次のように答えています。「ここは楽しむ場所なの。すべての家族のための場所。ただそれだけなの。キリスト教徒に関しては、非難したいって言うなら、そういう人達はみんな罪人でしょ。判断するって言う罪は、キリスト教徒が言う他の罪と同じくらい罪深いことなんだから。私はね、みんなを愛せるように努めてるの」

全てのファンを愛するパートン

LGBTコニュニティーのファンも多いパートンは、LGBTを支援しています。「感謝されて理解されるために、私自身かなり苦労したの。自分らしくいるために、いろんなタイプの人と対立したわ」と『ハリウッド・レポーター』に話しています。

「誰もが自分らしくいることを許されるべきだし、自分の好きな人を愛すことを許されるべきよ。そもそも、自分の問題があり過ぎて他人の非難どころじゃないしね」

ドリーおばちゃん

パートンは、『ガーディアン』に次のように話しています。「人は私を見るために私に会いに来るのではなくて、自分たち自身を見るために私に会いに来る、って良く言ってるの。私は自分らしくいるためにかなり戦っていたから、ゲイやレズビアンの人が共感できるのもこういうところが理由なんじゃないかしら。私は自分らしく生きる人達を受け入れるってことをきっと知ってるのよ。私たちは私たち、だから自分らしくいることを許されないなんてあり得ないでしょ?」

まさにパートンらしい答え!さらに、ゲイやレズのファンに対しては、家族のように年上の姐さんかおばさんという気持ちでいると話しています。パートンはLGBTのファン層が厚いカントリー歌手のひとりで、その理由も納得です。

受容は内から

当時、LGBTコミュニティーの存在を意識しておらず、自分のコミュニティーにそのようなグループがいることも知らなかったというパートン。2016年に『プライド・ソース』に、自分の家族を通じて初めて知ったと話しています。

「私たちは山で暮らしてるような人間だったから、当時は知らなかったの。本当に。若い時は [ゲイがどういうものか] 全く知らなかった。でもすぐに、違う人がいるって気が付いて、私はそれも問題なかったわ。私だって違うもの。私はそんな彼らを受け入れて、よく知ろうとしたわ。ホントに良く知ってたの。」

手を差し伸べるパートン

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『プライド・ソース』に対して、家族の中にもゲイやレズビアンがいて、彼らが自分自身を受け入れられるよう手を差し伸べた、とも話しています。

「自分らしくいることにを受け入れられるように、たくさんの人を助けてきたの。『自分という人間を他人に知ってもらって、カミングアウトしないと』って言ってね。暗闇にこもったまま人生を過ごすことは出来ないでしょ?そんなの意味がないじゃない?それじゃぁ一生幸せには慣れないわ。病気になっちゃう。自分の感情と自分という人間を抑え込んだら、不健康じゃない」

パートンを大統領に

2016年、「ヒラリー・クリントンを支持する」と発言した、と『ニューヨークタイムズ』が誤った報道をしていますが、パートンはこれを賢く否定しています。「私はヒラリー・クリントンもドナルド・トランプも推薦はしてないわ」 (『ガーディアン』、パートン)

パートンは、誤解を解くために次のように話しています。「誰かに『女性が大統領になるということはあり得ると思うか』って聞かれて、私は女性はいいと思う、ヒラリーはいんじゃないって言ったの。どっちかの候補者を推薦したわけじゃないわ。私は、ヘアスタイルがキマってるから自分が立候補しちゃうかもねって言っただけ。もっと女性がいたほうがいいって思うのよ。個人的には政治には関わらない。誰に投票するかは決めてないわ」。2020年の選挙にドリー・パートンなんてどうです?

どちらの候補者も頭がおかしいと思っているパートン

2016年の後半、ツアー、『ピュア・アンド・シンプル』のプロモーションのためにCNNのブルック・ボールドウィンのインタビューを受けたパートン。当時は、アメリカ大統領選の真っただ中でした。政治に関しての意見を聞かれると、たくさんのアメリカ人が思っていたであろう意見を口にします。

「今テレビで一番熱いショーよね。どこにおさまるのかはわからないけど、私はどっちも頭がイカれてる思うわ。私たちが本当に必要なことって何かしら。自分を思いやることよね。みんな安心感を求めてると思うの。今は政治のテロ状態。みんなしてすべてに関して死ぬほど怖がってるわ」

明かされる自殺未遂

新作の著書、『ドリー・オン・ドリー:インタビュー・アンド・エンカウンターズ・ウィズ・ドリー・パートン (原題:Dolly on Dolly, Interviews and Encounters with Dolly Parton)』の中で、パートンは驚きの発言をしています。ファンはパートンが楽な人生を送っているわけではないと知ってはいるものの、思った以上に辛い経験に耐えてきていたのです。その一つが、匿名の男性との不倫と別れ。すでにカール・ディーンと結婚していたパートンですが、当時の二人の関係はオープン・リレーションシップでした。

悪循環に陥り、自殺まで考えたと言います。拳銃を手に座り込んでいた時に助けてくれたのは、ボストン・テリアのポパイ。「ポパイのトントントンって足音で現実に引き戻されて、急に固まったの。銃をおいて、神様に祈った。ポパイは神様からのメッセンジャーだったんじゃないかなって思ってるのよ」

「今まで行ってきたことと同じくらい誇ってるわ」

2017年5月8日、CNNに対してご意見記事を投稿。その中で、人生の中で最も誇らしく思った瞬間に関して語っています。賞を受賞、作品のヒットなどではありません。心優しいパートンは、2016年のテネシー州の山火事の被災者を支援したことこそ、最も誇りに思う瞬間だったと綴っています。12月から、パートンの『マイ・ピープル・ファンド』は、火事で自宅を失った900の家族に毎月1,000ドルを送っています。

5月の第一週目、助けを必要とする家族にの元に、「最後の支援金の支払いはプラス5,000ドル」というサプライズを届けたパートン。つまり、12月から計算して、各家庭に合計で10,000ドルを支援金を送ったことになります。「10,000ドルで問題を全部どうにかできるわけではないけど、お金があればまた夢を見ることができるでしょ」

1987年、アルバム『Trio』が5週連続でビルボード・ホット・100で1位に輝き、今まで以上に成功を収めたパートン。このアルバムには、4曲のトップ10のカントリーヒットが収録されています。これにより、グラミー賞の最優秀カントリー・パフォーマンス賞ヴォーカル入りデュオまたはグループ部門を受賞し、グラミー賞最優秀アルバム賞にノミネートされました。

1990年代にヒットを世に送り出してきたパートンは、1999年にカントリー・ミュージック殿堂博物館殿堂入り。その後はブルーグラスアルバムを制作し、そのうちの何作かはグラミー賞を受賞しています。

どんな楽器も弾けるパートン

Rick Diamond/Getty Images
Rick Diamond/Getty Images

バックアップ楽器を自分で演奏しなくてはいけない状況でも、引き下がらないのがドリー・パートン。ほぼすべてのタイプの楽器の演奏法を身につけているそうです。

2016年、『ヴォーグ』に次のように話しています。「私はどんな楽器もちょっとは弾けるの。どれも上手じゃないけど、それっぽく見せようとするようにしてる。一生懸命取り組むようにしてるのよ。私の家族はとても音楽の才があったから、みんな何かしらの楽器がひけたの。あるもの掴んで演奏したりしてね。だから、上手だとは言わないけど、ショーで演奏できるほどの腕前はあるわ!」

生涯で書いた曲の数

Gems/Redferns via Getty Images
Gems/Redferns via Getty Images

様々な楽器を演奏できるとなれば、歌やソングライティングの才能も頷けます。初めての歌は、自分のトウモロコシ人形に関する歌。これは7歳の時に製作しています。当時はまだ文字を書くことができなかったため、母親がパートンのために歌詞を書き出してくれたそうです。

ウェブサイトによれば、2~3日に1曲のペースで曲を書くというパートン。実際にこれほどの頻度で7歳から曲を書いているとすれば、生涯で5,000曲を作り出している計算になります!

スローダウンなし

Michael Marks/Michael Ochs Archives/Getty Images
Michael Marks/Michael Ochs Archives/Getty Images

あれだけの忙しい生活でソングライティングをする時間などどこにあるのか、と思っている方も多いのではないでしょうか?実は、製作にかける時間は意外とあるものなんです。

「バスで移動している時にたくさん曲を書くの。正直ツアー中は他のどんな時より曲を書いたり、本を読んだり、ビジネス関連のことをしたりする時間があるわ。ショーは夜の11時に終わって、次の日の8時まですることがないから、曲を作る時間はたくさんあるの。ほぼ毎日ものを書くわね。考えだったり、タイトルだったり、歌が浮かんでくることもあるわね」 (『ヴォーグ』、パートン)

キャリア形成でインスパイアを受けたもの

SSPL/Getty Images
SSPL/Getty Images

若いころから曲を製作しており、その分野でキャリアを築き上げているところから推測すると、スローダウンする気配さえないように思われますよね。彼女の年齢を考えると、もう引退したくなってもおかしくありません。しかし、8歳のころから野望に突き動かされているドリー・パートンは違います。

2014年、『ガーディアン』に次のように語っています。「声が聞こえたってわけじゃないけど、突然わかったの。『止まっていいというまで走り続けろ』って。私、ずっとこんな感じなのよ。私は走り続けてるの。人、もの、病気、憔悴で立ち止まったことはないわ」

自分の曲はビジネス

Michael Ochs Archives/Getty Images
Michael Ochs Archives/Getty Images

パートンのキャリアの成功は、野望だけでなく音楽に対する彼女のビジネスアプローチのお陰でもあります。2017年、『BBCニュース』に対して、最高のキャリアアドバイスは父親から受けたものだと明かしています。

「学識のある人じゃなかったし、文字を読んだり書いたりもできなかったけど、父親にはいいビジネス感覚があったのよ。『他の人に利用されるな。自分のビジネスに集中しろ』って言われたわ。だから音楽界に入った時、これを『ビジネス』として考えてたの」。その「ビジネス」に対してパートンが真剣に取り組んでいることは明白ですよね。

パートンの成功の秘訣

Yui Mok – PA Images/PA Images via Getty Images
Yui Mok – PA Images/PA Images via Getty Images

自分の楽曲の権利をコントロールするためだけに、自身の出版社を設立しているパートン。「お金を稼ぎ始めたら、成功しなかったときや成功しても失敗した時のために、よりどころになるような他のビジネスに投資するべきよ」と『BBCニュース』に話しています。

ビジネス志向の考え方のお陰で、パートンはかなりの成功を収めてきています。フォーブスのセレブリティ100のリストによれば、2016年から2017年の間で稼いだ額は3,700万ドル。この年のほとんどの収益は、ピュア・アンド・シンプルツアーとドリーウッド・パークによるものです。

お互いのプライバシーを尊重するパートンと夫

ドリー・パートンが忙しい有名人であることを考えると、本人や旦那さんが浮気をしてもおかしくないのでは…と思う方もいるかもしれません。多くの人が2人はほとんど一緒に公の場に出ないということに気づいています。ただパートンによれば、これは意図的にそうしているだけです。

「夫は公の場所に出たがる人じゃないの。とってもプライベートでね。それに関しては彼を尊重してるわ。だから、お互い自分の生活をするようにしてるの。自分のすることすべて、考えてることすべてを知らせる必要はないでしょ。私は出来るだけ共有するほうだけど…でも、自分だけの神聖でプライベートなことって言うのはあるものよ」

噂を全く信じないパートンとディーン

結婚生活をプライベートにしているため、離れている間はお互い浮気をしているのでは…といううわさが絶えません。本人たちは、そんな噂を笑いの種にしているそうです。

「安定した結構生活っていうのはいいけど、浮気なんて全く別問題でしょ。夫は私が帰ってこない時がいつか知ってるわ。誰だって、他人のあら捜しをしたくなるものよね。自分にそんなことがあっても私は教えないけど。そんなの公開するなんておかしいでしょ?浮気したかもしれないし、しなかったかもしれないし、するかもしれないし、しないかもしれないし。他の人には関係ないことよ!」 (『ガーディアン』、パートン)

ウィッグクローゼットを持つパートン

James D. Morgan/Getty Images

派手な見た目で有名なパートン。ツアーの時に使用するウィッグ専用の部屋までお持ちだそうです。

パートンは『ヴォーグ』に次のように話しています。「ショーのためのウィッグ全部を収納するキャビネットがあるの。ツアーの時は、ヘア担当のシェリル・リドルと一緒にまわるわ。ウィッグを運ぶためのキャビネットをいつもバスの後ろにのせてるの…。全部は数えられないわ。『ほぼ毎日かぶってるから、365個はあるんじゃない?!』って良くふざけて言ってる」

ドレスのための防空壕

Scott Gries/Getty Images
Scott Gries/Getty Images

ツアーバスのウィッグキャビネットがやり過ぎたと思った方は、ナッシュビルの豪邸内にドレス防空壕を所有していると聞いたら驚愕するはずです。

パートンのマネージャーであるダニー・ノゼルは、『ガーディアン』にこう明かしています。「武器庫みたいな感じだよ。巨大な金属製のドアでさ。入るためには爆破しないといけない的な」。70代のパートンのキャリアを考えると、恐らく何千万という数のドレスを所有しているはずですよね。独特のスタイルを持っているため、ドレスが強固に守られているとしても納得です。

変装しても無駄

Mark Mainz/Getty Images
Mark Mainz/Getty Images

その派手なスタイルのお陰もあり、セレブの中でも目立つ存在のパートン。しかし、変装して素性がバレたという逸話を持っています!

2009年、『デイリー・ヘラルド・トリビュート』に、クリスマスの買い物に出かけた時の話を語っています。「黒い眉にしてメイクを完全に変えて、黒いウィッグをかぶって、普段と全く違う格好をしたの。CDショップで友達と買い物をしてたんだけど、誰も気が付かなかったのよ。でも私が何か言ったら、傍にいた若者のひとりが、『黒いカツラをかぶったドリー・パートンじゃん』って気づいちゃったのよね。私の声って、見た目と同じくらいに特徴的みたい」

「神の輝き」を持つパートン

Bettmann/Getty Images
Bettmann/Getty Images

世界中の人達から愛されているため、人びとが惹かれる何かがあるのではと考える方もいるでしょう。本人にこの質問を投げかけると、パートンは「神の輝き」と答えています。

「毎日、神様に何か私にさせてくださいってお願いしてるの。他の人間のためになる何かをさせてくださいってね。誰かを幸せにすること。愛の火花を見せてくれるもの…神様が人を判断しないようにおしえてくれたんだから、周りの人は自分のように愛さなきゃ。私は愛されたいから、みんなを愛するようにしてるのよ」 (『ヴォーグ』、パートン)

家族で暮らした家を再建

パートンの慎ましい生い立ちは、本人にとって身近で大事なことです。そのため、お金を稼ぐようになってから、自分が生まれ育った田舎の町にある家を買収。現代風にリノベーションを行ってはいるものの、当時のままになるべく再現するよう努めました。

『ネイト・バーカス・ショー (原題:The Nate Berkus Show)』に出演した際には次のように話していています。「弟のボビーは腕のいい大工なの。ボビーが作業して修復したのよ。私たちが住んでいる時の状態を再現しつつ、機能的にしようと思ったの。50ドルしかかけてないようにみせるために、数百万ドルかけたんだから!バスルームだって、アウトドアトイレって感じにしたのよ」

パートタイムの露出狂…?

Jason LaVeris/FilmMagic via Getty Images
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ど派手な彼女の性格を考慮すれば、楽しいことをするのが大好きだということは想像できますよね。今までやった一番ヤバいことを聞かれた際、パートンは「公共の場での露出」と答えています。親友のジュディーと共にお互い別々の車を運転して、「停止」標識ごとに露出にしてお互いに挑みあったそうです。最終的にパートンが勝つために思いついた方法が、完全ヌード!

「ドアを開けて月明かりの中、車の周りを歩いたの。それから、すぐに出しちゃった!やるまでは何でもなかったのよね。でも、突然『私素っ裸だ』って気づいて。恥ずかしかったんだけど、やったこと時代は誇ってるわ」 (『ローリングストーンズ』、パートン)

パートン初の出演作

John Springer Collection/CORBIS/Corbis via Getty Images
John Springer Collection/CORBIS/Corbis via Getty Images

パートンの初映画は、ジェーン・フォンダとリリー・トムリンと共に出演した『9時から5時まで』。その前にも映画への出演オファーがあったものの、実際に出演承諾をしたのは『9時から5時まで』が初めてです。

1980年、『ローリングストーンズ』誌のインタビューで次のように語っています。「すぐに挑戦しないとって思ったわ。これはキャリアの転機になるってわかったのよ… [ジェーン・フォンダが] 私とリリーを指名してたの。ジェーンが高速道路を運転してたら私の歌がラジオから流れてきたんだって。ずっと私のソングライティングのファンだったらしいの」

自分らしい方法で役作り

20th Century-Fox/Getty Images
20th Century-Fox/Getty Images

『9時から5時まで』はパートンにとって初のハリウッド映画だったため、それ以前の演技経験は0。しかし、パートンは経験不足を微塵も感じさせませんでした!

パートンはキャリア志向の野望家であるため、自分の役の準備のためにセリフすべてを一気に暗記!「面白かったわ。私、映画がどんなものだかわかってなかったから。でも、みんなと同じくらいうまくやれるって確信があったの。盛り上がりに合わせて、はじめからスタートしてストーリーに沿って撮影するって思ってたのね?だから、初めに全部のセリフを暗記しちゃった」 (『ローリングストーンズ』、パートン)

『9時から5時まで』の共演者と再会

Tom Wargacki/WireImage via Getty Images
Tom Wargacki/WireImage via Getty Images

40年後、2017年のエミー賞でスピーチを行うべく、『9時から5時まで』の共演者であるジェーン・フォンダとリリー・トムリンと再会したパートン。ここでのスピーチのお陰によって、3人は翌日メディアを賑わせました。

「1980年代、私たちは、性差別者、利己主義、嘘、偽善的な偏屈者にコントロールされることを拒みました…2017年、私たちはまだ性差別者、利己主義、嘘、偽善的な偏屈者にコントロールされることを拒み続けています!」実際にこの言葉を発したのはフォンダとトムリンであり、パートン自身が発言したわけではありません。ドナルド・トランプの当選を受け、この時期の多くの賞が政治色を強めていました。

パートンはドナルド・トランプに票を入れたのか?

Kevin Winter/Getty Images
Kevin Winter/Getty Images

パートンがアメリカの政治がおかしいと思っていたことはすでにお話ししましたが、最終的に誰に投票したのかはわかっていません。パートンがエミー賞で口をつぐんでいたため、多くの人が「トランプに投票したのでは?」と疑惑の念を向けました。

フォンダとトムリンが抵抗の姿勢を見せた後、「これは政治の話ではなく、3人の共演者であったダブニー・コールマンの話である」と、パートンから説明をいれています。パートンがこのように説明する予定だったのかどうなのかは定かではないですが、同じ意図を持っているわけではいないことがわかり、3人の間に気まずい雰囲気が流れていることはお分かりいただけるはずです。

パートンの名前をとった羊

Maurice McDonald – PA Images/PA Images via Getty Images
Maurice McDonald – PA Images/PA Images via Getty Images

賞の受賞だけではとどまらず、彼女への敬意を示してとある羊がドリーと名付けられました。1997年7月5日、エジンバラのロスリン・インスティテュートの科学者たちが、胚性幹細胞からではない初の成体幹細胞からの哺乳類のクローンに成功。この初のクローン羊がドリーと名付けられました。

チームを率いたイアン・ウィルムット教授は次のように話しています。「ドリーは乳腺細胞から生まれました。立派な巨乳といえば、ドリー・パートンですからね」。ドリーのクローンには、羊の細胞一つを雌羊の乳房から取り出して、代理母に植え付けています。つまり、ドリーは産んでくれた代理母とは血のつながりがなく、細胞の元である羊の複製です。