あなたは、「リトル・ヘラクレス」を覚えているだろうか?彼の過去と現在の様子は

「リトル・ヘラクレス」との異名をもつリチャード・サンドラックは、世界で最も”彫刻のような体をした屈強な8歳児”として有名になった。リチャードは、日々の厳しいトレーニングとその努力により、プロボディービルダーでさえも驚く、体格を手に入れた。しかし、リチャードのその体とその生活習慣は、「彼の健康に害を及ぼすのではないか」「トレーニングを無理やりやらさられているのではないか」という疑問を世間に残した。一体、リトル・ヘラクレスと呼ばれる彼の私生活に何があったのか、普通の子供とは違う衝撃的な幼少期を、ここにご紹介しよう。

幼少期には悪影響?激動の人生はここから始まった

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TeamNewAngeles2/YouTube
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1992年4月15日、リチャード・サンドラック(後のリトル・ヘラクレス)は、ウクライナで世界チャンピオンの武道家パベルとエアロビクス選手レナの間に産まれた。1994年、両親は、息子により良い教育環境を与えようと、家族でペンシルベニア州に移り住んだ。

この時のリチャードは、たったの2歳。しかし、父親はこの時から、息子に軽いウェイトリフティングを始めさせたのだ。ウェイトリフティングを始めてから、程なくして、父は息子にボディービルダーとしての素質があることに気付く。ここからリトル・ヘラクレスの痛ましくも激動的な人生が始まるのだ。

プロ並みの運動能力を見せつけたリチャード

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2歳にして、リチャードはプロ並みの運動能力を見せつけた。父親は、リチャードがボディービルにもっと触れ、たくさんの経験ができるように、より良い環境を求め、すぐに家族でカリフォルニア州へと引っ越した。父親は息子がカリフォルニアで有名になると信じていたのだ。

カリフォルニアで各地のジムを回っているとき、トレーナーのフランク・ギアルディーナと出会った。彼は、後にリチャードの指導者として、サンドラックが雇用することになる。ギアルディーナは、リチャードがボディービルダーとしてのキャリアを築くまで、トレーニングを直々に指導し、多くの時間を共に過ごすこととなる人物だ。

容赦ないトレーニング

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ギアルディーナと出会ってから、リチャードは毎日ジムでトレーニングに励んだ。まだ幼い男の子だった彼は、もちろんトレーニングなどしたくない日もあったが、そんなことは関係なかった。父親とトレーナーは、常に上を目指し、1位を目指すようリチャードを励まし続けたのだ。

他の同世代の男の子たちが友達と遊んでいる間、リチャードは毎日腕立て伏せ600回以上、スクワット300回以上を行っていた。コーチと父親は二人で協力して、リチャードの肉体改造に尽力していった。

ただのトレーニングタイムではない

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また、毎日のトレーニングに併せて、リチャードが摂る食事もかなり重要だった。リチャードの父親は、彼が口にするものについて厳しく管理し、何を摂取しているのかを監視した。リチャードの体に本格的に結果が見えてきたのは、ハードなトレーニングと計算された食事の賜物だった。

ちょうどこの時期に、「リトル・ヘラクレス」と地元のジムで呼ばれるようになっていた。そして、完璧に肉体を仕上げたリチャードを試合に出場させることが決まった。

疑わしいトレーニング法

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リチャードは、彼の意に反して身体的に強いられたことはないが、成人になった今でも、自分に課されていた奇妙なトレーニング内容を覚えている。リチャードは、自己鍛錬を学ぶためという名目で課されたトレーニングで、レタスしか食べられなかった。しかし、父親は、彼の目の前でピザを食べていたのだ。

また、リチャードは姿勢を改善するために、床で眠らなければならなかった。その他にも、世間一般的な親が聞いたら、軽い虐待が疑われるようなトレーニングがいくつかあった。しかしながら、リチャードはその時はおろか、今でさえも、それが虐待だとは思っていないようだ。

競技に出場し始める

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jilyanna/Pinterest
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8歳を前に、全国で開催されていたナショナル・ボディービルディングのイベントに、リチャードは、次々と参加し始めた。また彼は、健康食品会社の広告塔としての仕事もしていた。

少年ボディービルディングの世界で有名になってくると、彼が世間の目に止まるようになるのは時間の問題だった。一度注目を浴び始めると、あっという間にリチャードは、ラジオとテレビのインタビューを受けることになった。

世界中の注目

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リチャードが「リトル・ヘラクレス」として有名になるのにそう長くはかからなかった。世間は、リチャードの生活についてもっと知りたいと思い始めていたのだ。そして、彼の人生と日々のトレーニングを追ったドキュメンタリー番組『世界最強の少年』に出演することになる。

ドキュメンタリー番組では、リチャードの体脂肪率が1パーセントに満たないという、細かいことまで公表され、その事実に眉をひそめる人も出てきた。また、トレーニングにどれだけの時間を費やしいたのかを知り、気の毒に思う人も出始めた。

疑問が浮かぶ

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ドキュメンタリーが公開されてから、リチャードの心身の健康状態について世間からは、疑問が投げかけられるようになった。リチャードがどれだけトレーニングをさせられているのか、それはやりすぎではないのか、憂慮すべきだったからだ。また、リチャードが、年齢相応の社会との交流をもっていなかったことは、誰の目から見ても明らかだった。

体脂肪率1パーセント未満ということも、健康とは思えない状態であり、人々はリチャードがテストステロンや、身体能力を上げるための薬を服用しているのではないかと疑いはじめた。

リチャードはその疑いについて回答した

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Lab of Top10/YouTube
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リチャードはそういった質問に対し、「お父さんの助けは借りているが、トレーニングをするのにプレッシャーをかけられたことはありません。」と回答した。

リチャードは、自主的に行っていることで、危険な状況には晒されてはいないことを強調した。しかしながら、彼のトレーナーまでもが、父親がリチャードを危険なまでに過酷な状況へ押しやっていると主張したのだ。これは後日、家庭内暴力で父親が罰を受けることになってから、真実であることが証明された。これにより、多くの人がこれまでの疑問に感じていたことに答えがでた結果となった。

終わりの始まり

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リチャードが11歳のとき、父親は、夫婦喧嘩中に母親の鼻と手首を折ったことで、家庭内暴力で逮捕、刑務所に送られた。

これでリチャードのボディービルダーとしてのキャリアは途絶え、世間からは、すぐに忘れ去られることとなる。父親が逮捕されたことで、彼のキャリアは失速した、という事実が、リチャード個人の目標だけで、ここまで来たのではないということを物語っていた。父親は、彼の人生に確実に大きな影響を与えていたのだ。

リチャードは終わりにした

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リチャードは、父親が逮捕されたことにより、自分のために何かに挑戦することにしようと、今までの生活を辞めることを決めた。母親は、父親のように何かを強制したことはなく、リチャードがやりたいと思うことを全力で支えた。

今度こそ彼は、今まで過ごしたことのなかった普通の生活を送る機会を得たのだ。同世代の友達を作って、何か自分の好きなことに挑戦できるのだ。

移行期間

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Photo Credit: Michael Bezjian/WireImage
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15歳のとき、トレーニングの時間を一回90分、週5回まで減らした。そして、たまにはピザやソーダなんかをたらふく食べた。当時の住み込みマネージャーだっやマルコ・ガルシアは、彼の生活を、普通の生活に近づけるのに大きな役割を果たしたのだった。

リチャードは、小児肥満の危険性を高める映画にも出演した。幸い、世間はリチャードの普通の生活を応援した。

映画・メディアへの出演

František Fuka
František Fuka

ボディービルダーをしていたときとその後の生活のおかげで、リチャードは、カメラの前で決して緊張しなくなった。彼は『ハワード・スターンショー』に出演し、筋肉とボディービルのスキルを披露した。

2009年には、初のハリウッド映画『リトル・ヘラクレス』に出演し、そのほかに『レジェンド・オブ・ネシア』、短編映画の『アサシン・プリースト』にも出演した。ハリウッドで俳優業をする傍ら、彼は『ホーガン・ノウズ・ベスト』や『インサイド・エディション』等にも出演した。

完全にボディービルディングをやめる

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父親の逮捕から、ボディービルの世界を完全に引退するまで、そう時間はかからなかった。結局、世間が思うほど、彼はボディービルが好きではなかったのだ。リチャードは、何か全く違うことに挑戦したいと思っていた。

残念ながら、毎日のほとんどの時間をジムで過ごしてきたし、父親が許さなかったので、子どもらしくいられる時間さえも、彼は過ごした事がなかった。しかし、ほどなくして何が本当に好きなのか、彼は見つけることができた。

本当に情熱を傾けたいこと

Photo Credit: Kevin Winter/Getty Images
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ボディービルを完全に辞めた後、リチャードは自由な時間を手に入れた。その素晴らしさは、想像以上だった。映画に出演し、小児肥満撲滅運動の活動を続けながら、リチャードは他にも好きなことを見つけた。

体形を維持したかったので、ステアクライマーやスイミング、ホームビデオの作成など体を使う活動に参加し始めた。そして今、リチャードがどうしているか、きっと誰も想像がつかないだろう!

リチャードの職業

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何年も世間の目から離れて、自分自身を見つめ直し、リチャードはようやく世間に対して、自分がどう過ごしていたのかを明かした。。2015年のインタビューで、彼はハリウッドのスタントマンとして活動していたと答えた。

建物から飛び降りようが、火だるまになろうが、彼は今、ユニバーサルスタジオで働いている。お客さんの前で多いときに一日に5回、火だるまになって演技しているのだ。

生活に何かスパイスが必要だった

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リチャードが、スタントの仕事を好きな理由は、世間一般の人が仕事にしていること、もちろん今まで自分がしていたことと、まったく違うからだ。毎日が挑戦だが、その時に出るアドレナリンによって、情熱を失われずにいられると言っている。

彼は、ジムで一日7時間行なっていたウェイトリフトのトレーニングでは、アドレナリンが全く出なかったと言う。彼の生活には、何か彼を奮い立たせるものが必要だったのであり、その興奮が今の毎日の情熱に繋がっているのだ。

なんの後悔もない

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子ども時代や過去について聞くと、リチャードは何の後悔もないと断言する。だが、その様子から判断するに、彼は本当に追求したい、と思うものにここ数年の時間を充てることで、失った時間を埋め合わせたかのようだった。もし「リトル・ヘラクレス」だったのが彼だと世間が気が付かなくでも、リチャードが傷つくことはないだろう。

インタビューの中で、リチャードは「過去のことは誇りに思っている。他人に知られたくないと思うようなことじゃないけれど、ただそれにしがみついていたくないんだ。」と答えている。

最近の趣味

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彼は何年にもわたって、「リトルヘラクレス」としていなければならなかったので、好きだといえる趣味なんて、少ししかなかった。以前ほど、ジムに入り浸ってはいないが、それでもリチャードは、どんな運動も好きで、特に有酸素運動の階段ランニングも大好きである。

また、父親に強いられていたものとは全く異なる、健康的な食事も続けている。気晴らしにスケートボードをすることもあり、毎日楽しく、刺激的なトレーニング方法を送っていると語っている。

将来のプラン

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現在26歳のリチャードは、決して同じ場所に、常に止まっていられるタイプではない。しかし、現在の状態にも満足はしている。彼は、二度とウェイトリフティングの世界には戻らないと言っているが、今後、何を職業にしたいのかはある程度、見当をつけている。

リチャードは、量子科学の科学者になりたいのだ。彼の今までの人生からは、なかなか想像しづらいかもしれないが、かなり前から、NASAでスペースシャトルのエンジニアとして働くのが彼の夢だった。リチャードは、この夢を叶えるために、今は働き、その夢に向かって努力しようとしている。

リングから映画俳優へ、あなたの知らないジョン・シナの壮絶な人生とは?

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TIZIANA FABI/AFP via Getty Images
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ジョン・シナの献身的で苦難の多いこの人生は、全て実話であることを最初に言っておきたい。彼は、20年近くの間、WWEの顔となるプロレスラーの一人として活躍していた。更に、「Blockers」公開と共に、映画スターにもなった彼は、エンターテイメント業界でも、スポーツ業界でも、最も優秀な人物の一人として、今も人生を駆け抜けている。

最初の結婚も含め、彼が人生で成功するまでには、多くのものを犠牲にする必要があった。 何度も言うが、これは彼の人生にあった本当の話で、この先、彼にまつわる衝撃的な事実の数々に、あなたはきっと驚きを隠せなくなるだろう。

2009年、ジョン・シナは高校の同級生と結婚

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Kevin C. Cox/Getty Images
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2009年、彼は高校時代の恋人であったエリザベス・フーバドーと結婚。彼が自分のプライベートについて語ることはほぼなかったので、プロポーズなどの詳細については、何も詳しいことが分かっていない。12ラウンドに進んでいく間も、誰かと付き合っていることさえ、公表はしていなかったのだ。

シナとフーバドーを結びつけたのは、決してお金なんかではなかった。しかし、3年間の結婚生活の末、2人は別々の道を歩む事を決めたのだ。フーバドーは、離婚によって失ったものは大きかったと語っているが、WWEは、彼の離婚が成立した後に、彼女との結婚はシナにとっての大きな汚点だったと語っている。

レッスルマニアで負けたのは離婚のせい?

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Mike Coppola/Getty Images
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彼は、2012年に行われた「The Rock」のレッスルマニアで敗退したのは、離婚のせいだと避難された。結婚に失敗し、それに輪をかけるように、敗退したことに対して、彼自身も「自分が失敗したという脅迫概念を断ち切ることができず、仕事にもプライベートにも影響してしまった」と語っている。

シナ自身、離婚の真相について言及することはなかったが、WWEは、離婚を看板にして彼を宣伝していった。今日では、離婚の理由について様々な議論が上がっているが、その真実については、誰も分かっていない。フーバドーは、彼の浮気が原因だとしており、シナは、WWEに誠実な態度を示す為、離婚したなどと一部の記者に述べていることが分かっている。

しかし、真実がどうであれ、彼はその後すぐに、ニッキー・ベラと交際を始めたのだ!

ニッキー・ベラとの交際を公の場で認めた

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Josh Brasted/WireImage via Getty Images
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離婚後、彼はニッキー・ベラとすぐにデートを始めた。シナの最初の妻の支持者達は、ベラとの交際が離婚の原因であると示唆している。しかしながら、偶然なのか、必然なのかベラ自身も最初の結婚は、高校の同級生としており、3年後には離婚している。そして、その事実を隠していたのだ。

WWEは、2人の関係に摩擦を起こそうと、ベラ自身も結婚していたという事実を大々的に発表した。しかし、彼女の口から、ニュースについての事実を明かされた後、シナは「彼女がしたことは私に会う前にした過去のこと。」と、報道者の罠にはハマらなかったのである。そして2017年、彼は75,000人ものファンの前で彼女にプロポーズをしたのだ。

75,000人のファンの前でプロポーズを承諾したベラ

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Taylor Hill/FilmMagic via Getty Images
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ニッキー・ベラとデートをし始めた頃には、もう彼は、プライベートを包み隠すのをやめていた。2017年に彼はレッスルマニアで彼女に大勢のファンの前でプロポーズをし、ニッキーもまたそれを受け入れたのだ。

しかし、次の年にジョン・シナ達の婚約は契約書化されたものの、中には、彼に対する今後の結婚生活を心配するような内容もあった。そもそも、シナは、2度目の結婚は全く計画しておらず、だからなのか、ベラに彼の人生の全て注ぐには、重すぎて、このカップルは2018年、交際に終止符を打ったのだった。

結婚式の2週間前に別れを決意した2人

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Matt Winkelmeyer/Getty Images
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2人は、結婚式を執り行う2週間前に、お互い別れを決意したことを発表し、エンターテイメント業界には衝撃を与えました。破局の原因は、相互に納得のいったものであると発表されたが、People誌には、全く違う見解を示している。「ジョンは、どういうわけか結婚へ向かう内に怖気付き、自分の行動の全てが彼女に有利になるように動かされていると感じた」と語っている。

破局後、ベラは姉のブリーと一緒に引っ越した。現在、シナは自分自身で乗り越えようとしているのか、既に次の恋人候補と騒がれているカルメラに移行しているのかは、今後報告が上がってくることだろう。

学生時代、彼はフットボールで54番を身につけていた

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John Shearer/WireImage for BWR Public Relations/Getty Images
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ジョン・シナが、The Rockと共通している点は、WWEのスター選手から映画俳優に移行したことだけではない。シナは、ドウェイン・ジョンソンのように、学生時代は、フットボール部に所属していた。また、彼はNCAA ディビジョン3 スプリングフィールドカレッジのセンターとして、54番を身につけていました。アメリカ全土の名誉を獲得したシナは、いまだに彼のカレッジナンバーを、公式商品として売っています。

The Rockと異なり、彼はNFLでのキャリアの追求はしなかった。運動生理学の学位を取得して卒業した彼は、レスリングに目を向け、1999年、Ultimate Pro Wresting に加入した。

元MLBの一塁手、トニー・ルピアンはシナの祖父

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Jacob de Golish/Getty Images
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驚くことに、彼の祖父は元陸軍選手のトニー・ルピアンである。1940年代から1948年まで、ルピアンは、ボストン・レッドソックス、シカゴ・ホワイトソックス、フィラデルフィア・フィリーズを拠点としていました。.268のキャリアバッティングを出した後は、引退し、コーチ業を勤めた。

21年間、ダートマス大学でヘッドコーチを担当し、彼は313勝で1970年のカレッジワールドシリーズで5位に入賞した所で、彼のコーチとしてのキャリアを終えた。そして彼は、2004年に87歳で亡くなったのである。

カトリック教徒で育ち、多数の高校に通う

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彼は、マサチューセッツ州ウェストニューベリーでカトリックの教育を受けて育った。この時、彼は特に苦労もなくのびのびと育っていた。彼はその後、高校を転々とし、ついには私立のクッシング・アカデミーに転校した。2018年のクッシングの授業料は55,000(約580万円)ドルだと言われている。

クッシング・アカデミーは、名前の通り、エリート教育を目的とした進学校であり、「心の教育、パーソナリティの形成及び若い男女の相互思考の育成を専門とする男女共学校」と主張している。クッシングアカデミーは、特に彼の性格の基盤を作ったと言える。

12歳でボディビルディングを始める

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Adam Gasson/Total Guitar Magazine/Getty Images
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シナは4人兄弟の中で育った。また彼は、学校でいじめられたことがきっかけで、いかに自分の人生にとって戦いが重要なのか学んだ。自分を守るのは自分自身しかいないと、12歳の時にウェイトリフティングのセットをサンタさんに頼んだのだ。

その年、サンタさんは彼の望み通り、シナの欲しかったプレゼントを送った。そして、高校が終わる頃には、彼はかなりの筋肉質へと成長していたのだった。彼と彼の兄弟がベースメントで、ウェイトリフティングの基礎を始めた時、彼に敵うものは1人もいなかった。この先は、彼がどのようなレスリング人生を過ごしたのか見ていこう。

プロトタイプは、彼にとって最初のキャラクター

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Michael Becker/Getty Images for Fox
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1999年にUltimate Pro Wrestingに加入した際の、彼の最初のキャラクターは、プロトタイプだった。プロトタイプは、現在のWWEで魅せる彼のキャラクターとは全く異なるものである。ロサンゼルスの小規模リーグの為に作られたこのキャラクターを「50%の男性、50%のマシン、そして100%の複雑な何かでできている」と語った。

彼がWWEの契約に署名した時、シナはオハイオのリーグにプロトタイプのキャラクターで参戦した。しかし、その試合で敗退した後、ウィリアム・リーガルは、「シナが、ブーツとショートパンツを履いたら、少しはレスラーのように見えるかもしれない」と彼のキャラクターを嘲笑した。シナは、86足のブーツと128枚のショーツを買い、2年後、再び大きな試合への参加のため、電話をかけたのだった。

初戦は代役で。カート・アングルと

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KMazur/WireImage via Getty Images
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シナの初戦は、2002年のカート・アングルとの戦いだった。アングルは、当初、シナと戦いの予定はなく、アンダー・テイカーと試合をする予定だったのだ。しかしながら、試合直前にアンダー・テイカーはインフルエンザにかかり、シナが彼に代わるかたちとして、抜擢されたのだった。

同じ時、アングルはアンダー・テイカーとの戦いを今か今かと、待ち望んでいた。しかし、試合に彼が現れずシナが現れた時、その状況を飲み込むまでに少し時間がかかった。結果として、その試合でシナは勝利をすることはできなかったが、このデビュー戦は、WWEのファンの間でも印象に残るものとなったのだ。そこから、彼のキャラクターは評判になり、プロトコルよりも、彼自身のキャラクターが完成されていったのだった。

ジョン・シナはラッパーに?

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Stephen J. Boitano/Getty Images
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プロトタイプのキャラクターを捨てたシナは、マサチューセッツ州ウエストニューベリーでラッパーを始めた。なぜ、彼が突然このような経緯に至ったかというと、それはWWEのツアーバスにいた馴染みのステファニー・マクマホンに触発されたからである。マクマホンは、シナの自由なラップに惹かれ、声をかけたのだった。

何事にも常に挑戦をする姿勢を見せるシナは、マクマホンが食べていたツナ缶をもラップの題材にしたのだった。それらの新しい発想が、シナに新たな魅力を持たせた。彼はブラックジーンズのショートパンツを着こなし、フリースタイルのラップで多くの人を魅了することになったのだ。

ビンス・マクマホンは、シナを解雇する?

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Jamie McCarthy/WireImage via Getty Images
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2002年にもし、ビンス・マクマホンが彼と同じ方向を選んでいたなら、おそらくシナは単なる歴史上の、補足的な存在でしかなかっただろう。また、ラジオのインタビューでシナは、2002年、そして2003年にマクマホンとトリプル・エイチを解雇する方針であることを明らかにした。これにより、ヴィンスとトリプルHは、彼を嫌ったかもしれないが、ステファニーだけはそうはしなかったのである。

この事実から予想できるかもしれないが、マグロのラップ事件は、彼のキャリアを結果的に救ったこととなる。もし、ステファニー・マクマホンと、ツアーバスで出会っていなかったなら、そこには全く違う展開が待ち受けていたであろう。WWEからもらった全てのお金を、彼が何に使ったのかは、おそらく私たちは知らない方がいいだろう。この後、彼は今よりも更に有名な映画スターになっていくのだが、彼の最初の役は想像できるだろうか?

世間を騒がす直前の彼の大画面デビュー

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Photo Credit: Warner Brothers/Getty Images
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シナは、2018年の映画「Blockers」の前に、こっそりと俳優デビューしていたのだ。映画のテロップで、彼が大画面デビューしたのは、彼の人生でも記憶に残るものになっただろう。

それはおそらく、私達が瞬きをしている間にひょっとすると見逃してしまうくらいの時間だったが、確かに彼はそこにはっきりと映っていたのだ。ゴールド・バーグが、WCWのジムでの試合中、オリバー・プラットと対決しているが、その後ろにシナが写り込んでいるのだ。撮影に使用されたのは、Ultimate Pro Wrestlingジムで、そこにいるレスラーは皆、エキストラとして使用されていたのである。

大量のtic tacを食べるという儀式

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Photo Credit: Cindy Ord/Getty Images for iHeartMedia
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全てのアスリートには、少なからず試合前の儀式というものが存在するだろう。シナの場合は、必ず試合前に「tic tac」を食べるのだ。彼は、試合開始の3時間前から、食べ始める。そして、彼は「私は、おそらく5箱もの tic tacを毎試合で消費していると思う。」と語った。

そして、tic tacを食べる行為だけが彼の儀式ではない。対戦相手と会話を交わすのもとても重要なのだ。彼は「試合前は、必ず対戦相手と握手を交わし、”幸運を祈るよ、安全には注意して、楽しんで行こう”と伝えるよ。例え、彼らが試合の時に僕のことを打ちのめしたいと思っていてもね。というか、おそらく僕がこの言葉をかけた時が、最も僕に殺意を抱く瞬間かもしれないんだけどね。」と笑って言った。

2005年には、彼のラップアルバムを発売

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Michael Tran/FilmMagic via Getty Image
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彼のラップに対する情熱が本物であることを示すかのように、2005年に自身のラップアルバムをリリースし、その年のアルバムヒットチャートでは、ベスト15位入りを果たした。アルバム「You Can’t See Me」は、最初の1週間で4万枚を売り上げ、その後130万枚をも売り上げる大ヒットになった。

2014年のSB Nationの販売アルバムレビューでは、グラント・ブリスビーが「思っていたほど、悪くないね。今後も伸びる可能性はあるよ。」とコメントしたが、評論家たちの間での評判は、好ましくなかった。「何曲かは、ビートが明らかにおかしいものがある。リズムにヒットしていない。」との辛口コメントが続いた。幸いにも、その後、シナがアルバムをリリースすることはなかった。

2005年、彼の評価は一変した

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John Shearer/WireImage for BWR Public Relations via Getty Images
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長い間、シナはWWEの中で、信頼感を得るのにとても苦労していた。格闘技の評論家たちは、「彼の戦い方は優しすぎる。まだ、一度だって試合で血を逃したことがないじゃないか。」と批評した。しかし、2005年これを覆す試合が起こるのだ。シナは、自分のタイトルを守るために、JBLと試合をした。その試合での、彼の出血はものすごかったので、WWEとその関係者たちは、TV-MAと評価しざるを得なかった。

惨事の始まりはJBLがスチール椅子でシナを叩いたことだった。シナはその衝撃で血が吹き出したのだ。シナはそこからJBLに対し、テレビのモニターを投げつけ、JBLにも出血させた。そして、後ろに下がった後、鉄パイプを掴み、一気に襲いかかったのだ。シナは自分のタイトルを守り抜くために容赦をしなかったのだ。その後、ガラスパネルを使って、彼を叩き、JBLは為す術もなく負けを認めたのだ。この試合の後、決して彼の試合に、再び疑問を投げ掛ける者は現れなかった。

多くの人に希望を与えるお手本となった

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Nick Doan/WireImage via Getty Images
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2015年の試合で、ジョン・シナは500番目の「Make A Wish」に承認され、彼の経歴は素晴らしいものへと成長していった。シナは、自分には子供がいないにも関わらず、子供が大好きで若い世代に良い影響を与えるということで、”do-gooder”というWWEでも良い印象を与え得るキャラクターとして認められていた。

彼自身は、子供を持つということは、多忙なキャリアの育成により、まだ準備は整っていないようだったが。実は、元婚約者のニッキー・ベラとの子供を持つことについて拒否したということで、関係に亀裂が生じたのではないかと一部のメディアでは報じられている。

第二外国語、マンダリン(Mandarin)を習得

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Allen Kee/WireImage for World Wrestling Entertainment, Inc/Getty Images
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彼は、WWEが海外進出するのに伴って、マンダリン(Mandarin:中国の標準語)を学んでいた。上海のイベント中に、彼が披露したマンダリンは完璧で、観客を驚かせた。彼の第二外国語習得のモチベーションは、WWEを世界にも通用するブランドに変えたいという強い思いがあったからこそである。

マンダリンを学ぶ過程で、彼はまるでその言語に恋をしたかのような錯覚に陥ったようだった。彼は、「私には決して多くの自由な時間があるわけではないが、1時間や2時間の家庭教師との時間は、ただただ話すことに時間を費やしているよ。」と嬉しそうに話していたのだった。